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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の黎明期(3)(新会社へ)

都甲 昌利

 米国の占領下に創られた日本航空は航空機をノースウエス航空から借り受け、パイロットも米国人、航空管制もすべて米軍に握られていた。実態は、いわば米国の航空会社だったといってよい。
 講和条約が締結されて日本が独立をすると、日本人の日本人による航空会社を創設しようという機運が高まった。この時、我もわれもと航空輸送事業者が名乗りを上げてきた。新航空法によって航空事業者は誰でも申請が出来たからだ。

 先ず名乗りを上げたのは、パンアメリカン(PA)と阪神急行電鉄の合弁会社で、PAが航空機と乗員を提供するというものだ。次に大阪商船とイースタン航空(米国)の合弁会社で、将来は国際線に進出が予想されることから、戦前南米移民に実績のある日本の船会社に目をつけたわけである。日本の会社としては、全日空の母体となる日本ヘリコプター(代表者美土路昌一)、極東航空、北日本航空などが名乗りを上げた。

 このような状況の中で、当時の朝日新聞は社説で「航空事業への外資の参加を排す」と主張し、航空事業を外国の政治的・経済的支配から守れ、外国の主要航空会社はすべて国策会社である、日本政府は設立には慎重を期すべきだ、という論陣を張った。

 この間、日航は国内線を充実し、国際線進出を準備していた。長距離国際線機DC-6Bの発注したのもその現れであり、来るべき各社が申請を認められた時、国際線を運航する会社としての地位を固めておく必要があった。当時、運輸省の基本方針が航空審議会の答申書により国際線は1社と明記されていたからだ。申請各社の間で免許獲得合戦が繰り広げられた。民間では決着がつかず、遂に政治問題となった。政権の座にいた時の吉田首相・石井運輸大臣は日本航空株式会社法を制定し国会の承認を求めた。この法律は昭和28年8月、公布施行され、同年10月、ここに新しい日本航空が誕生した。
 爾来、日航は今日まで政治と関わりあっている。

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