政治・経済・社会
日本の公債発行
中学の社会科で商業簿記の初歩を学んだ。法人の会計は明瞭、継続、真実の原則を守って記帳するものであると髭の先生が教えてくれた。きちんと整理され、誰が見ても分かりやすくなければいけない。ゴーイングコンサーンだから生命は長きにわたって不滅である、したがって記帳の原則は一度決めたら変えてはいけない、恣意性を排除する。また経営の実態を確実に記録するために虚偽の記帳は許されない。当然のことと思われるが、これがきわめて難しいことが最近の日本の財政を見ているとわかる。
記帳した資料を生かすも殺すもそれは経営者の仕事である。第一の目標は期間収支の黒字である。入るを量って出づるを制す、すなわち支出は収入の範囲内に抑える、余剰を生みだし、仲間の生活水準を挙げる、蓄えを残し将来の投資に充てるのが経営の基本と教わった。企業の世界では、期間損益は経営者の通信簿であり、マイナスは経営者失格の烙印となる。赤字が続けば総力を挙げて出費の削減に努めなければならない。二宮尊徳は相馬藩の百八十年の歳入歳出を詳細に調べた。収入の低い九十年の平均歳入を基準に歳出額を決定した、との故事もある。家計でもお小遣いでも赤字が続けば破綻に直面する。支出を減らすか、別途収入を増やすなど知恵をめぐらし、朝から晩まで働くこととなる。
日本の財政は何故か緊張感が切れてしまった。一九六五年に国債を発行して以来毎年発行し続けている。当初は建設国債のウェイトが高かったが、最近は赤字国債が主である。日本経済の成熟に伴い、乗数効果が乏しくなった。また政治の世界では、福祉、暖かい民政、命を守るとの掛け声で支出の拡大ばかりが続いている。その結果、発行残高は六百兆円を超え、歳入の十年分を超える水準に達した。しかもその発行を抑える動きはほとんどない。国民に国債購入余力があるから逆にもっと歳出を増やせとの声が高い。借金に慣れ、返済に無神経な風潮に、底知れぬ奈落の底に落ちてゆくような大きな恐怖を覚える。