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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

フロイスの日本史

稲宮 健一

 筑紫哲也の遺稿「若き友人たちへ」の引用文献であるポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの日本史の第一巻「信長編Ⅰ」を読んだ。フロイスの在日布教活動はイエズス会の年次報告書に記述され、室町末期の信長編、秀吉編などと膨大な資料に成っている。

 この巻に1549年に来日したフランシスコ・ザビエルが最初に布教した時の様子が書かれている。まだ、動力船の無い時代に、東の果てまで福音の布教のため渡航してきた強靭な信念には敬服する。布教は基本理念であるキリシタンの完全性、宇宙の創造、人間の誕生、神と人間、昇天、復活、最後の審判、永遠の命などを真理として、異教徒である仏僧と宗論し、支配階級から庶民まで信仰を広めることである。その心情はキリシタン信仰への一途さと、異教徒に対する戦闘的な心構えが滲み出ている。

 これを読んでいて、少し前にアフガニスタンのタリバン(基はイスラム教の学生)配下の児童がコーランを読み、暗誦している姿を思い出した。普通の一般教養の教育はないに等しいようだ。まるで5世紀逆戻りしたようだ。

 中世では、洋の東西を問わず、厄病から、自然災害を含め森羅万象は人知を超えた超自然の支配下と考えられており、心の安寧を得るよりどころとして宗教は重い意味を持っていた。しかし、現在では、ガリレオの地動説、ダーウィンの進化論、そして動植物に共通するDNAなどの自然界に関して驚くほど多くの知見が解明されている。

 にもかかわらず、この知見から隔離された思想体系で純粋培養された人々から原理主義が派生し、さらにはテロの原因にもなっている。

 現代では客観的な事実を肯定したうえで、心の課題として宗教と向き合うべきである。この課題には決して唯一の解は見つけられない主観的なものなので、考え方の多様性に対して寛容になったうえで、自らの心の休まる道を選ぶべきと考える。一途な考えで他を否定すると、他から否定される。

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