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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

衣川の安部伝説

大月 和彦

 観光客でにぎわう平泉の中尊寺を北へ1㎞ばかり、衣川を渡ると奥州市衣川地区の田園地帯になる。国道から少し外れた集落の広場に「みちのくの名将――安倍一族鎮魂碑」が建っている。死者の魂を慰め鎮めるためのモニュメントだ。

 衣川が作った扇状地のこの辺一帯は、11世紀半ばに「奥六郡」と呼ばれた北上川中流域を支配した蝦夷のリーダー安倍頼時・貞任父子の拠点だった。

 朝廷は、俘囚の長として勢力を広げてその威に服さなくなった安倍氏を討伐するため、源頼義・義家を派遣し、陸奥の地で九年に及ぶ戦いが行われた。追いつめられた安倍氏は岩手県の北部厨川柵まで敗走し、ここで力が尽き一族は誅殺されてしまう。

 豊かに広がる田んぼとそこに散在する集落には、この悲劇の一族の遺跡と伝えられる場所が、手を加えられないまま数多く残っている。守護神と崇めた旗鉾神社、政庁と家臣団の居館跡といわれる並木屋敷、安倍氏建立と伝えられる長者ヶ原の廃寺跡、物流の拠点だった川港の跡、貞任の弟行任の居館白鳥館など。

 鎮魂碑から西へ6㎞ぐらい、旧衣川村の中心街近くの山の斜面に史蹟一首坂がある。戦いのさなか貞任を追う義家が「きたなくもうしろを見するものかな しばし引き返せ もの言わん」と呼びかけ、句を投げかけると、貞任はすぐ句を返したので、弓を緩め立ち去ったという故事の場所。歌碑が建っていた。新渡戸稲造は『武士道』で義家のこの行為を武士道にかなったものとたたえた。歌碑の前に並んで置かれた両武将の石は貞任の方が大きく、奥まったところにあった。

 衣川地区にある歴史資料館では、館長さんがこの郷土の英雄を熱っぽく語り、館内でいっしょになった地元の人は「元首相安倍普三さんのルーツもこの一族だ」と誇らしげに話してくれた。

「化外の地のまつろわぬ民」とされて軽ろんじられた古代東北人、蝦夷の末えい達は、朝廷に果敢に抵抗したこの一族に親しみと誇りを持ち続けているようだ。

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