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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の黎明期(4)(国際線に進出)

都甲 昌利

 日本が独立し空が完全に戻ったのは終戦からまる8年後の昭和28年だ。この8年間の空白は後に日航にいろいろなダメージを残す。
 日航法という法律に基づいて設立された、新日航は旧日航の権利義務の一切を継承して、既存の国内線の運営の当たると共に、日本で唯一の国際線定期運送事業の免許会社として国際線に進出することになった。独立国日本が国際交流と云う観点から自国のフラッグ・キャリアーを持つことは国民の願いでもあった。
 新会社設立に当たり資本金をいくらにするか、また役員人事をどうするかが最大の焦点になった。政府は「国際線の開始に支障ない人事をするよう」という声明を出し、天下りを避け、会長は原邦造(三井物産)、社長・柳田誠二郎(日銀)に決まった。資本金は政府出資の10億円、日航の10億円、計20億円の会社として発足した。

 翌昭和29年2月2日、戦後初の国際線定期便がサンフランシスコへ向け羽田空港を飛び立った。乗客はたったの5人。第2便目は1・5人。つまり一人と乳幼児である。これは今でも語り草になっている。不振の原因は8年間の空白があったことと、早急に創った会社で知名度が低く、既にPAとNWが合計週12便が乗り入れて日本のマーケットを席捲していたことによる。日本人機長は未だ育っておらず、日航のパイロットは米国人であるのに「カミカゼ・パイロット」と揶揄されたり、「Japs go home」のビラが貼られたりして、米国内では嫌がらせを受けた。戦前と違うのだという意味で機体には「WINGS OF THE NEW JAPAN」と書いてアメリカ人に新生日本を印象付けた。

 販売体制強化のため、広報・宣伝に力を入れ、世界各地の旅行代理店と販売契約を結び、また外国航空会社と連帯輸送契約を締結するなど、着々と販売体制を築いていった。しかし、運航経費が嵩み、一機当たり30人の乗客を乗せないと採算が採れない状況だった。赤字は覚悟とは言え3月決算では2億9000万円の赤字を出した。前途多難なスタートだった。

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