文学・言語・歴史・昔話
真間の手児奈伝説
市川市真間に古くから伝わる美しい女性のロマンスを詠んだ歌が万葉集に載っていて、これにまつわる歌枕や旧跡などが多く残っている。
下総国の葛飾真間に、毎日井戸の水を汲みに来る手児奈という貧しいが美貌の娘がいた。言い寄ってくる数多くの男たちに身をまかすことなく、処女のまま理由を告げず入水してしまった。人々は墓をつくって手児奈を偲んだという。
この処女塚(おとめづか)伝説が当時広く流布されていた。
天平の頃、山部赤人や高橋虫麻呂など万葉の歌人が東国に遊んだ時、この話を聞いて手児奈の墓に立ち寄り、この悲運の女性を偲んで数首詠んでいる。今ではこの歌によってのみ手児奈の言い伝えを知る事が出来る。
手児奈は「麻衣に青衿付け」、「直さ麻を裳には織り着て」、「髪だにも掻きはけづら」ない粗末な身なりにもかかわらず「望月の足れる面わに花」のように美しく「錦綾の中に包める」着飾った良家の娘も及ばなかったと、響きのいい優雅なやまとことばで語られている。「倭文機の帯解き交へて」とも表現し、薄命の美女手児奈のイメージをさらに膨らませている。
JR市川駅から北に1㎞、国府台台地の南端に奈良時代の高僧行基が手児奈の霊を慰めるために建立した弘法寺ある。ここに通じる万葉通りとも呼ばれる大門通りを北に向かう。流れのよどんだ真間川を渡った一画が旧跡や碑などがある万葉の世界になっている。
密集した住宅街に青銅葺きのこじんまりした堂宇があった。手児奈を祀る霊堂。境内にあるハスで覆われた小さな池が身を投じたと伝えられる入り江の跡という。赤人が「われも見つ人にも告げむ葛飾の手児奈が奥つ城処」と詠んだところ。
霊堂から通りを隔てた北側の真間山の崖下に、弘法寺貫主の隠居宅だった亀井院がひっそり佇ずんでいる。裏庭に手児奈が水汲みをした井戸と泉水があった。
「藻が生えるきれいな入り江、干潟や砂洲、丘陵の麓の清冽な湧水….…」
歌から想像した風景からほど遠い「万葉の里」だった。(10・6・10)