作品の閲覧

「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

題名

平尾 富男

 ものを書くときに、その内容にふさわしい題名を付けることは中々難しいものだ。

 タイトルも浮かばず頭の中でああでもないこうでもないと考えていても、いっこうに筋道が立たないから先ずは書き始めてみる。書くことによって頭の中を整理しようというのだ。いちおう最後まで書き上がった文章を読み直して、はたしてこの文章にはどんな題が適しているだろうか、と頭をひねることになる。
 テーマも題名も決まらずに書き出すと、筋立ちが整わなくなって内容に混乱をきたすことが多い反面、先に題名を決めてから書き進めていくと、当初考えた構想からずれてしまう場合が多々ある。
 ある閃きによってタイトルが頭に浮かんで、軽快に書き進めていくことができる場合もあるが、往々にして先に決められた題名に縛られて発想の飛躍、展開が妨げられてしまいがちだ。特に文芸作品に挑戦する際には経験済みである。

 先日、知人の編集者から聞いた。題名を付けないで記事を投稿してくる人が居た、と。ある大きなテーマに沿った募集記事であるから、「題名は専門家の編集者にお任せする」というのが投稿者の言い分だった。本来なら即ボツにするのだが、中身を読んだら面白そうだったので、然るべき題を付けて採用を決めたのだそうだ。
 早速、掲載記事を見た投稿者から「題名が記事の内容を昇華させてくれた」と感謝の手紙が届いたという。

 確かに題名が適切であれば、本文も生きてくるし読者の理解力を増してくれる。せっかく書いた文章も、題名如何では他人に読んでもらえないことも事実だ。題名は書かれた内容のテーマを事前に示したり象徴したりするものであるから当然である。そうかといって、学術論文の副題ならいざ知らず、内容を詳しく説明するような長い題名がいいはずはない。

 書いた文章に気のきいた題名を付けようと苦心するのも楽しい作業ではある。もっとも、一見面白そうな題名でも、本文の方がお粗末では、それこそダイナシだ。(了)

(2010.07.14.)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧