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「800字文学館」 体験記・紀行文

秋山郷の山宿再訪

大月 和彦

 3年前の豪雪で建物が破損したため廃業したと伝えられる信州秋山郷の仁成館を訪ねた。寛政年間の創業で、文人、釣り人や登山客に愛され、苗場登山の浩宮殿下も泊られたという山の温泉宿だ。
 以前数回泊まったことがあり、露天風呂が忘れられなかったので、電話をしてみるとやっと通じた。営業はしていないが、昔のお客さんから頼まれると断り切れず泊めているという。
 4月末の秋山郷は雪が解けたばかり、早春だった。道端の雪の割れ目にフキのトウが顔を出している。
 旅館はやめたというのに、この時期に客がいた。山菜採りの茨城県歩こう会の熟女二人と鎌倉から岩魚釣りにきた夫婦で、いずれも主人夫婦と顔なじみの人達。

 夕食は、主人が釣ってきた岩魚のほかは全部山菜だった。三通りに調理されたコゴミ、ウドの刺身と称する掘りたての山ウド、行者ニンニク、山菜のてんぷら、マイタケのホイール蒸し、フキのトウ、十日町近辺の里山で採ってきたというアケビの若芽とワラビなど。
 スト―ブを囲んで地酒を酌み交わしながら、話し好きな主人のクマ猟や岩魚釣りなど山の話を聞く。夜遅くまで話がはずんだ。
 主人はずっと横浜暮らしだったが、20年前に帰ってきて家業を継いでいる。

 鈴木牧之の『秋山記行』に記されている温泉は、無色透明の炭酸泉でなめらかだ。
 露天風呂は健在だったが、ぬるかった。自然石で囲まれた浴槽には簡単な屋根が架けられ、梁からランプがぶら下がっている。小屋の周りに黒ずんだ雪が残っていた。
 わが国の五指に入るのではと主人が控えめに自慢するここからの景色は見飽きない。
 上方には鳥甲山の険しい稜線が横たわり岩と雪が輝いている。中間のスギとカバの樹林があるテラスは端が赤茶けた大きな崩れとなっている。下方には、岩を儼み、白く砕ける中津川の急流が見える。雪解けで増水しているのでゴーゴ―という音が聞こえてくる。

 朝の一刻、自然の峻烈さと神秘的な景観に厳粛な気分になった。

(10・7・14)

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