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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の黎明期(6)(全日空の台頭)

都甲 昌利

 創立当時、全日空のロゴ・マークはヘリコプターの羽根だ。レオナルド・ダ・ヴィンチが考案したヘリコプターをデザイン化したものである。全日空がヘリコプター会社としてスタートした証である。昭和27年東京にヘリコプターで宣伝活動を目的とした日本ヘリコプター輸送株式会社が設立された。通称「日ペリ」。その後、大阪を拠点とした極東航空が「日ペリ」と合併して全日本空輸株式会社が誕生した。通称「全日空」。英語で言うと「All Days Empty」と揶揄された。

 このように誕生した航空会社が今や日本を代表する健全なナショナル・キャリヤーに成長したのは何故なのであろうか。それは多分に国内線を主体として設立されたことによる。日本航空のように国策会社として国際線に進出をせざるを得なかった会社とは一線を異にする。米国においても国内線を主としたUAは生き残り、国際線だけを運航していたPAが破産したのとよく似ている。

 全日空はこれまで順調にきたわけではない。成長期の1966年に起きた、羽田沖でのボーイング727型機の墜落事故、松山沖墜落事故をはじめとする1960年代に起きた事故により、多大の出費によって経営面で苦境に立たされた。この現状を見て政府は経営再建を進めるため日本航空に支援を要請してきた。日航が副社長以下幹部を送り込み整備・運航部門で援助を与えた。このことはあまり知られていない。これで、経営状況は改善したが、全日空内部で生え抜きの幹部と派遣された日航幹部との対立が激化して3年で終止符を打った。その後、全日空は札幌オリンピックなどの特需を受け乗客数も増加し立ち直りを見せた。

しかし、全日空が本格的に成長したのは元運輸事務次官の若狭得治氏が社長として実権を握ったときからである。主軸であった国内線に加えて、昭和61年国際線定期便を開始した。国際線就航一年を待たずしてボーイング747型機を就航させ、アメリカ本土進出を果たし日航の脅威となった。

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