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「800字文学館」 政治・経済・社会

戦争を起こしてはならない(その二)

稲宮 健一

 毎年八月になると今でも先の戦争が話題に上る。時々戦争を考えるのも無意味ではないだろう。

 柳田邦男の著書『零式(れいしき)戦闘機』を読んだ。通称、零戦(ぜろせん)の設計主務者である堀越二郎技師を中心に開発の詳細が緻密に記述されている。人工衛星の設計を担当した筆者は随所に共感した。

 堀越が三菱の名古屋航空機製作所で最初に戦闘機の設計を担当したのは入社五年目の昭和七年、海軍の「航空技術自立計画」に基づく純国産の艦上戦闘機の試作(七試)であった。それ以前、海外出張などで世界の情勢に触れて来たが、当時はまだ、英、独、仏などからの技術導入の時代で、お雇外国人に設計を依頼するような状況であった。

 ようやく、試作機は時速三二〇キロを達成し、世界に伍していける性能を実現した。試験飛行、整備や部分的な改修を通じて着々と実績を積み上げた。さらに九試を経て、昭和十二年零戦の基本になる十二試艦上戦闘機の厳しい仕様に従って、千馬力、時速五百キロ、徹底した軽量化と空気抵抗の最小化機体、世界初の超々ジュラルミンの使用、引き込み脚、優れた操作性など、細部に亘って粘り強く考察を尽くした世界最先端の戦闘機を開発した。数々の限界に迫る試験、改良を通じて、昭和十五年(紀元二六〇〇年)に正式に型式認定が下りた。この〇に因んで、零戦と呼ばれた。終戦まで、一万機を超える量産がされた。

 太平洋戦争初期には嚇々たる成果を挙げ、行くところ敵なしであったが、その後五年間も初期性能からの飛躍はなく、戦争の後期になると、二千馬力のグラマンや、零戦が挑めない高高度飛行能力のあるB二九などに完全に水を開けられた。また、搭載用レーダ開発など、全く国力の差を見せつけられる羽目に陥った。

 日本の文化は、他も羨む繊細な美を追求し、実現することは得意であるが、大局からものを見ることができず、世界の中から外れてしまうことが多い。その教訓は現在も通じるのではないか。

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