創作作品
拳(こぶし)の中身
行き詰っていた。
男は会社の上役から、女と別れるか、さもなければ辞表を提出するよう迫られていた。女は得意先にあたる権藤建設の一人娘だった。建設界で権藤と言えば、その名を知らぬ者はいない。女は女で、そんな父親から、男と別れなければ一切の縁を切ると宣告されていた。
―何構うものか― 雅彦は心の中で嘯く。目の前の寝乱れたベッドには、情事の余韻も覚めやらぬ美保が横たわっている。
「いいかい。例えば何かに嵌まって手が抜けないとする。だけどそれは、掴んでいるものを放そうとしないからだ。拳の中のものを思い切って諦めてしまえば、案外簡単に手を抜き取ることができるのさ。行き詰っている状況とはそういうものだよ」
雅彦はそんな生噛りの説法で、美保に駆け落ちを迫っていた。
「そりゃあ、父上を見捨てるようで心苦しかろうし、君にも色々苦労をかけるだろう。だけど、僕たちが結婚して幸せになれば、いずれ許して下さる時もくるはずだよ」
―何と言ったって一人娘だ。子供でもできた暁には、向こうから頭を下げてくるだろう。その時こそ権藤建設の後継者の座とともに、等々力のあの邸も俺のものになるはずだ―
雅彦は頭の中でそんな計算を巡らし、ほくそ笑む。
出会った時、美保は正真正銘、生娘だった。男を知らない箱入り娘を手玉に取ることなどわけもない。そして実際、雅彦によって女の喜びを教え込まれ、官能をコントロールされた美保は忽ち溺れていったのである。
「いいね、近いうちに必ず」
そう言うと、雅彦は美保の涙を唇で啜ってやった。
ところがである。何日たっても女からは何の連絡もない。携帯も繋がらない。さすがに苛立ってきた男の下に、やがて一通の手紙が届いた。手紙には、『何度も考えました。でも、私があなたを諦めることが誰をも傷つけない最善策なのだと思います。死ぬほど辛い選択でした。ごめんなさい』とあった。
当てのはずれた男は、恨めしげにじっと拳を見つめた。