創作作品
売約済み
権田原の明治記念館は格式が高く庶民には近寄り難い所だが、内庭で夏だけ開くビアテラスは思いのほか開放的でさほど高くない。現役のころ、ちょっとした相手とビールを傾けながら語らう折にそこを使った。黒々とした木立に囲まれた庭園の芝生がライトに照らされて浮き立つように映り、ロマンチックな雰囲気を漂わす。
ある夏の夜、部下の森下宏美の婚約が整ったと聞いて彼女をそこに誘ったところ、快く応じてくれた、お目付け役の友達付きだったけれど。宏美は三十近い心なし眇(すがめ)の、危うげな風情を宿す美形。男心は勝手なもので、それまで見過ごしていたくせに売約済みの札が付いた途端、他人(ひと)に取られるのが惜しくなる。
「森下さんにはマリッジブルーはないの」私は軽くジャブをだした。
「別に深刻な悩みはないけど、独身のうちにもっと羽を伸ばしておけばよかったなって、悔やむことはありますよ」彼女はペロっと舌を出す。
「じゃあ悔いを残さないように、一肌脱ぐか」私は冗談めかして気を引いた。
「あら、宏美、やりたいことはみんなやったって言ってたじゃない」
それまで蚊帳の外にいた友達が混ぜ返す。と、宏美は、よけいなことを言う、とばかりに斜めに睨んだ。
「まあまあ、男だって同じさ。年貢の納め時といいながらついキョロキョロして。あっ、別に森下さんの彼のことじゃないよ」
私はその場を繕うつもりが、薮蛇になりそうになり慌てた。
それから二十年、宏美とは賀状の交換は続き、今年のそれには、アラフィーになり子供の手が離れたとの添え書きがあった。一度会いたいとも。どうせ社交辞令だろうと放っておいところメールがきた。昔勤めていた丸の内がすっかり変わったと聞くので、連れて行って欲しいという。そこまでいわれたら受けざるを得まい。とりあえず来月会うことにした。もう枯淡の域に至った私は彼女に会うからといって、別に浮き立つ気持はない。が、何を着て行ったらいいのか、ちと悩んでいる。