体験記・紀行文
メコン河畔で若者たちと
メコン河の河面から吹いてくる夜風は本当に心地よい。
「メコン・ブリーズ」という名のレストランだった。えてして名は体をあらわさないのにこれは本物だ。空港から西へ一、二キロ、幹線道路から離れた田舎道沿いの閑静な場所だが、涼しさと料理に惹かれてか客は多かった。
でもラオ人かアジア系で白人系はいない。
我がグループは男性が二人、若い女性が七人で、なんと女性は皆二十歳前後。だが日本の巷で見かけるギャルとは随分違う。皆が貧しき途上国へ貢献するため助産士として働く健気な若き姫ゆりたちである。 彼女等は無菌状態に慣れた日本人と異質なのか、ダニや鼠をものともしないツワモノでもあった。我々はJICAが途上国へ派遣するボランティア・グループだったのである。シニアは時々若者を食事に誘い、栄養補給と共に彼らが持ちえない知恵を聞かせろとの、当局のすすめもあったからであったが、双方がメリットを感じて自発的に参加する。 と言っても若者は年寄りの知恵より、財布の中身を期待する割合が多いのは仕方がない。
ともかくテーブルを囲んでメコン川で取れた鯉の丸揚げや空芯采の炒め物、カオニャオにビアラオで乾杯である。
「紅毛碧眼は居ないなあ」と私。彼女らはきょとんとした風情。
「失礼、時代がかった表現だった、白人のことよ」
「そう、それにしても聞かないわね、そんな言葉。明治生まれなの」
「ム、そんな年寄りに見えたか。それなら『亭主関白』はどうだ」
「意味は判るけど、現実感はないわね」と女性陣はなべて否定的だった。
そんなこと要求されるのは論外だし、するような男は歯牙にもかけないそうだ。
帰国してから頼まれて、ラオ人若妻に日本語を教えることになった。夫はハンサムな日本人エンジニアである。その時そっと彼に聞いてみた。
「どうして日本人にしなかったの」
「付き合うと、日本人を妻にしたいと思えなかったのです」と彼。
私は身につまされて、しばし言葉が出なかった。
二〇一〇.八月(本文八〇〇字)
注一:ラオ=ラオス、ラオ人民民主主義共和国
二:カオニャヲ=もち米飯
三:ビアラオ=米が原料のラオス産ビール