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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の成長期(1)(ジェット機時代へ)

都甲 昌利

 1958年は世界の民間航空輸送史上で画期的な年であった。ジェット機時代の開幕である。ジェット機の速度はプロペラ機の約2倍、座席も2倍で、供給量は4倍に増える。BOACがコメットを、PAAがボーイング707を就航させた。翌年、この波は羽田に押し寄せる。PAAが日航のドル箱である東京ーサンフランシスコ線に投入したのである。日航がDC-8型ジェット機を就航させたのはPAAに遅れること約1年、1960年8月。この間、乗客を速度の速いPAAのジェット機に獲られて、日航は大打撃を受けた。

 なぜ日航は後れを取ったのだろうか。一つにはサービスの良い日航に対抗するにはジェット機を早急に導入し、日航の導入をできるだけ遅らせるという米国の戦略ではなかったか。もうひとつは国の航空行政の遅れである。一機20億円もするジェット機を購入するには莫大な資金がいる。特殊会社の日航は営業年度に資金計画、収支予算を運輸大臣に提出し、認可を受けなければならない。日航は政府出資を30億円要求したが、なかなか認められずDC-8の発注が遅れた。

 この結果PAAは太平洋線で増便攻勢を繰り返し日航の乗客をさらっていった。年配セールスマンたちは「B-29に竹やりで戦うようなものだ」とか「戦争に負けたから仕方ない」といった自虐的言動が聞かれたが、社員たちは逆境にも拘わらずセールス努力を行った。日航が受ける損害は当初約15億円減るだろうといわれていたが、果敢な営業努力の結果、6億円程度の減収ですんだ。もちろん、この年の営業損益は5億円の赤字であった。

 これを契機として日航は多くの教訓を学んだ。社内における創造的な企画力や迅速な意思決定、それに政府や官庁に対する果敢な提言、それにもまして国民に対してPRの徹底など、これからなすべき課題が明確になった。
 米国はその後、優位な航空協定を背景にPAAの増便、東京からの以遠権を持つNWAの増便など日本に攻勢をかけてきた。太平洋をめぐり日米の熾烈な戦いの幕開けでもあった。

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