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「800字文学館」 創作作品

「おごじょ」たちの失恋

古川 さちお

 その男もいい年の老人になった。

 過日、男は所用のため妻を帯同し、久しぶりに故郷を訪ねた。次男の彼は長兄宅に泊めてもらうことにした。ところが帰郷翌日、のっぴきならぬ事態が出来〈しゅったい〉する。朝食を終えてテーブルを離れようとしたら身体の自由がきかないのだ。意識が薄れて気絶状態なので救急車がよばれた。車の中で一度は意識が戻ったが、森の中の大きな県立病院で診断と処置を受ける間は夢の中だ。
 急性の肺炎と診断され即日入院。病室に移されて初めて意識がはっきりする。付き添っていた妻も、その日は一旦長兄宅に戻る。翌日午後、上の妹夫妻を除き、兄弟姉妹たちが次々に見舞いに来た。皆の心配に反し体調はよく、血圧・体温が高目なだけで食欲も戻る。
 一日遅れの朝、妻も現われない時間に上の妹が訪ねて来た。誰もいない時間を選んだのは、五十数年前の秘められた恋の話をしたいためだった。

 男は旧制中学時代同年代の少女に片想いをしたことはあるが、恋が実ることはなく「自分は女性に全くもてない男だ」と思い込んでいた。
 実はそうじゃない。「当地の大企業H社の社長令嬢敏子さんを知っているでしょう。彼女はK大英文科でわたしの一年先輩。高校でお兄さんと同級だった高見さんの姪御さんよ」
「俺は彼女を秘かに恋していたので覚えているけど、あちらは知らないだろう」
「とんでもない。あちらさんはお兄さんを死ぬほど恋していたのよ。ご家族公認の片恋だったと聞いたわ」
「何だ!道理で独身時代高見君を介して彼女の父上に誘われ、東京八重洲ですき焼きをご馳走になったことがあったなあ。それだけで終わったけどね」
「敏子さんは知っての通り、今はもと県知事Tさんの奥様よ」
「本当は俺ももてたのだなあ」
「そうよ、兄さんに思いを寄せた『よかおごじょ』はほかにも沢山いたのよ。兄さんが海外駐在から帰るや否や京子義姉さんと結婚したから、大勢の皆さんが同時に失恋したのよ」

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