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「800字文学館」 日常生活雑感

善きサマリア人か?

大月 和彦

 ある昼下がり、外に出た家内が「大変、すぐ来て」ととび込んできた。出てみると老婆が道に倒れている。躓いて転んだらしい。意識はしっかりしているが立てないので起こしてほしいという。背中を抱いて起そうとするが、ぐにゃりと坐りこんでしまう。
 救急車を呼ぼうとするときっぱりと断わられる。家に帰って会社勤めの長男と相談したいという。

 こういう時に限って人が通らない。自宅はすぐ近くの団地の三階だと指差し、連れて行ってほしいという。
 脳出血などの一刻を争う事態ではないと判断、背負ってみる。意外に重い。緩やかな坂道を登り、団地住宅の狭い階段をあえいで、自宅に運び入れる。様子に変化なく普通の会話ができる。隣家の人に来てもらい事情を話して帰った。

 夜、息子さんが来宅、母親は90歳、救急車で病院に運んだところ骨折していて手術が必要とのこと。数年前に転倒して大腿骨が骨折、金属棒が入っているという。

 人助けのつもりで前後を考えずに無理なことをしてしまったが、この行為は、いろいろな問題を含んでいると思う。
 一応確認したものの脳出血など絶対安静が必要なケースだったらどうなったのか。
 家族か隣人に連絡するのが先だったのではないか。自宅は留守、帰宅後家族と相談すると言っていたのだが。
 「火事場の馬鹿力」だったのだろうか自分の体力を考えずに背負ったこと。ぎっくり腰や転倒の「二重遭難」の危険だってあったのだ。

 新約聖書に善きサマリア人の話がある。
 困っている行きずりの人を助けるのは善だが、ことは単純ではない。善意による行為が医療、教育など身近な場で思わぬトラブルになり、訴訟になるケースも増えている。
 惻隠の情に基づく親切な行いがしにくい世の中になっている。善意の行いによるリスクの民事刑事責任を免ずる「善きサマリア人(びと)の法」がわが国でも必要になるのかもしれない。

 あれから1年、団地三階の家には明かりが灯るが、その後老婆には出会っていない。

(10・11・11)

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