作品の閲覧

「800字文学館」 体験記・紀行文

伊根の少女

野瀬 隆平

 海岸線に沿って舟屋が建ち並ぶ伊根の町は、独特の雰囲気をかもし出している。船に乗って海から舟屋を見て回ったあと、自転車を借りて町の中を巡った。高台から眺めた町全体の様子を、何枚も写真に収める。自転車を返して宿に向かうバスを待っていたら、高校生らしい女の子が話しかけてきた。
「どこから来たんですか」
「東京から舟屋の風景を撮りに来たんです」
「わざわざ来るほど、そんなものが面白いんですかね」
 自分の町の風景などには全く魅力を感じないらしい。彼女は、問わず語りに話し始めた。バスで高校に通っているが、授業はつまらないし行きたくない。かといってこの町にはろくな働き場所が無く、道の駅のレストランでアルバイトをする程度だが、それでも学校に行くよりずっと楽しい。とにかく早くこの町から出たいという。
「東京にでてしまえば、何とかなるでしょうかね」
「いや、そんな考えは甘い。悪いやつらがいっぱいいて騙されるのが落ちだよ」
「騙されても結構です。ここを抜け出せるのなら、どうなってもいい」
話をどうつないでいけばよいのか戸惑ってしまう。その内に私が乗るバスがきた。乗り込んでからも、その女子高生はいつまでも手を振っていた。
 バスには、中年の西洋人のカップルが乗っている。私と同じ停留所で降りて、まごついている様子なので声をかけた。
「どこから来たのですか」
「イスラエルから」
天橋立まで来たついでに、伊根まで足を延ばしたという。一時間近くかけて来て、駆け足で町を散策した後また天橋立に戻るのだ。
 地元に住む若い人が死ぬほど逃げ出したいと思っている町に、遠くイスラエルから訪ねてくる人もいる。観光地というのは、そんなものなのだろうか。

 舟屋を改装した民宿に一泊した。かつて船が繋がれていた一画が大きなガラス張りの食堂となっていて、窓越しに海面が迫っている。夕日に染まる舟屋を眺めながら食事を始めたが、昼間会った女の子のことが、どうしても頭から離れなかった。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧