体験記・紀行文
赤十字の旗ひるがえる里
まさかりの形をした下北半島の刃に当たる海岸にある下北郡佐井村は、奇岩が連なる名所仏ヶ浦巡りの観光船が夏だけ発着する人口2500人の小さな漁村だ。
この夏、寛政年間に二年半にわたって下北半島の各地を巡り歩いた旅行家菅江真澄の足跡を追ってこの村を訪ねた。
蝦夷の松前から佐井の北隣の奥戸(おこっぺ)に上陸した真澄は、当時ヒバ材や海産物の積み出し港としてにぎわっていた佐井に滞在し、廻船問屋、僧侶、神職など地元の名士と歌会を開くなどして交遊していた。この中に江戸で蘭医杉田玄白に学んだ佐井の医者三上温がいたことが真澄の旅日記に出ている。
売店やレストラン、ミュージアム、展望台などがある船着き場前の広場に「赤十字の旗ひるがえる里 佐井村」と大書した看板が立っていた。
古い街並みにある商店や住宅の軒先に大小不揃いの布切れがぶら下がっているのが目につく。手縫いの赤十字旗だった。
1869年に江戸時代から続く医家に生まれた三上剛太郎は、日露戦争に軍医として満州に派遣された。傷病兵を抱えた野戦病院がロシア軍に包囲され、攻撃にさらされた時、三上は思いついて、あり合わせの三角巾を合わせ、赤毛布を切り裂いた布で十字を縫い込んだ赤十字の旗を作って病院の屋根に掲げた。この機転により攻撃を免れ、ロシア兵捕虜を含む負傷者70人の命が助かった。
戦地の傷病兵救護のために国際赤十字条約が調印されたのが1864年、日本がこの条約に加盟したのが1886年。三上が赤十字精神を活かして傷病兵の命を守ったのは1904年、わずか18年後のことだった。
1963年ジュネーブで開かれた赤十字百年記念博覧会でこの手縫いの赤十字旗が展示され、世界中に感動を与えたという。
日露戦争後佐井に帰って開業し、地域の医療に尽くした三上の赤十字精神を受け継ごうと佐井村では生家を保存し、街に赤十字の旗を掲げる運動をしている。
真澄と交遊のあった三上温は、軍医三上剛太郎の曽祖父だったのである。
(10・11・29)