作品の閲覧

「800字文学館」 政治・経済・社会

エノクになった宰相

新井 良侑

 聖書にアダムから四代目にエノクという人が出てくる。この人については、「エノクは神とともに歩み、神が彼をとられたのでいなくなった」という短い記述で一生が語られている。知る人は知るで、クリスチャンなら誰もがこのような人生を歩みたいと思っている。「死」という影がないからである。

 今春発売された、クリスチャン宰相大平正芳の自伝的小説『茜色の空』(辻井喬著)を読み、大平の人生をエノクの歩みに重ねあわせた。
 大平は高松高商に在学中の十八歳の時、『イエスの僕会』の指導者である佐藤定吉(東北帝大工学部教授)の講演会に、学内のこの会の一年先輩から誘われ参加した。

 彼はこの講演で神の愛を知り、イエス・キリストを主として受け入れ、信仰の道を歩みだし、彼に未知の無限の領域が開かれた。
 『イエスの僕会』に参加してからの大平の人生は、自分の意志や願望よりも神の意志の導かれるままのように展開した。無私であり、信義を重んじ、権力に媚びず、常に正義と公平を求め続けた大平は、その後、東京商科大学、大蔵官僚、政治家、最後は内閣総理大臣にまでなった。

 日本は太平洋戦争の敗戦で、壊滅的な被害を受け、連合国の統治下に置かれた。大平は国も人の心も荒れすさんでしまった母国を国民主権の平和な民主主義国にし、国際社会で名誉ある地位の回復と戦禍を与えた近隣諸国との友好な関係の確立のために全力を尽くした。
 私には権謀術策が渦巻いている国内外の政治の世界を、「主はニヒリストになることをお許しにならない」と大平が述懐しているように、彼は神と共に真摯に歩み続けたように思えた。

 『茜色の空』に、最後の病室の情景が書かれている。
 大平は大木の幹の樹液の音を聞くことができる付き添いの山村由美に、自分の心音を聞いておいて欲しいと頼んだ。由美は聞こうとしたが、何も聞こえなかった。しかし、「しっかり樹液を吸い上げているわ」と嘘を言った。
 生きながら、神に取り去られる人がいるものだと、ここを読んで自分なりに納得してしまった。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧