政治・経済・社会
汝の敵を愛せよ
文芸春秋十二月号に、元外務官僚の佐藤優が「困難な時こそ読む『聖書』の言葉10」を書いている。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(『マタイ福音書』五章四十四節)が最初の言葉である。私がクリスチャンであると分かると、人からしばしば問い掛けられた言葉でもある。
佐藤は「汝の敵を愛せ」というのは、イエスの言葉として有名で、キリスト教の博愛主義を示すものとして受け止められているが、イエスが説いているのは、「すべての人を愛せ」という抽象的な博愛主義ではなく、人々をまず敵とそうでない者に峻別し、その上で「敵を愛せ」と命じているのだと解釈している。
聖書は叙事的書物であるから、佐藤がいうようにこの言葉は抽象的な博愛主義ではない。ある時期まで、私も佐藤のように解釈し、周りの人を仕分けていた。
しかし、聖書の理解が深まるつれ、全体を貫いている思想に沿って読むことが出来るようになり、神の思想が分かってきた。それまで相互に矛盾する話や現実には起こり得ない事柄に困惑させられていたが、時空的関係や相補的な関係が見えてくるに従い、それまでの疑問や矛盾が解消し、新たな解釈、理解が生まれた。
聖書は、見えない神がご自身を表すために万物を創造し、人を造ったが、人は神を失い、神の敵になるまで堕落してしまったことを啓示している。 神が人の敵になってしまったので、「汝の敵を愛せよ」は「汝の神を愛せよ」となる。 イエスの十二使徒の一人ヨハネは、「現に見ている兄弟を愛さない者は、目にみえない神を愛することができない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである」と言っている。 「汝の敵を愛せよ」は「神の御子イエスを愛しなさい」という平和を願っている神の命令である。
主イエスを信じ、愛する人の心には神の愛が湧いてきて、他の人々を愛することができる。さらに、この愛は敵をも愛することができるものである。この愛の経験が歴史上の多くのクリスチャンの証しである。