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「800字文学館」 体験記・紀行文

88年の生涯より(27)ペンフレンド(その二)

大庭 定男

 ドイツの少女と文通し始めた頃、アメリカ・オハイオ州の田舎町ノースカントンの少年ボブ・マーシー君とも文通を始めた。英語教師の紹介によるものであった。

 彼の家は建材、石炭販売を業としていた。彼からはBoys’ Lifeという雑誌を送ってくれた。DC-3が初飛行した記事と写真があったが、その10年後、私はジャワ島バンドン市よりジャカルタまで、当時ダコタ機と呼ばれていたこの飛行機で運ばれた。

 昭和15年ころから日米関係がだんだん悪くなり、文通は途絶えてしまった。入営し、昭和19年初め、ジャワに転属になった私は、或いは戦場でボブと戦うことになるかもしれないと秘かに思ったが、これは杞憂に終わった。

 昭和22年5月、復員した私は、机の上に、戦前に貰った彼の手紙が載っているのを見てびっくりした。早速、手紙を出すと、その返事には、入営したが、国内勤務で過ごし、復員後は兄弟と共に家業を手伝っているとの事であった。

 私は昭和24年結婚、翌25年上京、安月給で新生児を抱え苦労していた。この頃、彼は古着、食料品、赤子用のおしめなどを送ってくれて実に有難かった。少しだぶだぶの洋服を着て出社すると、口の悪い同僚は「アメ古の旦那」と言って私をからかった。

 1960年代の初期、会社から日航ニューヨーク便開設の招待飛行参加を命ぜられ、その帰途、ノースカントンの彼を訪れ、一泊。彼、マリリン夫人、二人の娘に会うことができ、何十年間かの積もる話に花が咲いた。

 1969年、私はロンドン支店に転勤した。翌年、私の長女が訪米、彼の家で一週間過ごし、その豊かな生活に驚いて帰ってきた。

 1980年代、我達一家のロンドン在住時代に、2回にわたり、マーシー一家が訪英、私たちはウインザー、ストラットフォードなどに案内、長年の恩返しが出来た。ボブは90年代に他界、その後、マリリン夫人はアルツハイマーを患い、現在はもっぱら娘Julieとの文通を続けている。

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