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「800字文学館」 政治・経済・社会

「実家」と「心のふるさと」の狭間

上原 利夫

 男女を問わず一人暮らしの若者でも、親元のことを「実家」という。戦前は、お嫁さんが里帰りするときに使った言葉だ。そこで広辞苑を引くと、「家」の制度の廃止により法律上は廃語になったと。いまは、「自分の生まれた家、両親の家」を意味する。

 両親が亡くなっても、自分の生まれた家は実家である。そこには「家」の影が残り、兄弟姉妹が両親の法事をするときの拠り所となる。法律が変わっても、家と家族の関係はふっきれない。

 父を亡くした高齢の姉弟がいる。弟は外国に住み外国籍になっている。日本国籍の姉と母は一緒に他の外国で住んでいる。父の墓は日本にあるが、二人は日本に住む家を持たず、住民登録もない。ところが姉の方は入院し、母の介護も必要になった。悪いことに二人の滞在ビザは失効した。

 在外の日本領事は、二人を日本へ帰したいが実家がないので、母の兄弟姉妹に引き取りの協力を依頼した。昔なら代が変わっても実家の跡継ぎが引き取っただろうが、いまは身元を保証する人がいない。領事は困っている。

 このような事態がどうして起こるのか。いま、日本の都会には、ふるさとを離れて、もはや行き場のない独居老人が多いが、これと本質は同じだ。日本の家族制度が崩壊したのが原因である。明日は我が身かもしれない。ふるさとも実家もない。あるのは「心のふるさと」と親族である。親族は、民法上六親等内の血族および配偶者と、三親等内の姻族であり、廃止された「家」制度を補うが、親族の繋がりが危ぶまれる。

 私の子供が外国で生まれたとき、市販の赤ちゃん日記にファミリー・ツリーの頁があった。沢山ある枝に人名を書く場所があった。ところが、私はそこに名前を入れられなかった。知らないのである。それでも困らないからそのまま成人したが、老人になってから寂しい思いをするのだろう。

 「実家」と「心のふるさと」の狭間を埋めるものは、親族ではないだろうか。上記の母と娘の事例から私はこのように考えた。

(一一・○一・二六)

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