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「800字文学館」 芸術・芸能・音楽

葬送の曲の教訓

上原 利夫

 声楽仲間だった女性に久しぶりに会った。そのとき、自分の葬式でどんな曲を流すかを尋ねてみた。何のためらいもなく、音大卒の娘にピアノを弾いて欲しいと思っていたが、今は上達著しい小学生の孫娘の方がよいかな、と。癌で亡くなった彼女の友人は、自分でピアノを弾いたアメージング・グレイスを流してもらったという。

 葬送の曲について、わたしはまだ決めていない。後輩の葬儀で流れた曲がよかったので、横にいた音楽通の先輩に曲名を訊いた。バッハかヘンデルかなと言った。その帰りにわたしは、ヘンデルのCDを購入して家で聴いた。だが、探している曲はなかった。ところが驚いたことに、持っていたヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」がそれらしい。訳詩は「緑りなす木陰よ、これほど優しく愛らしく心地よいものは、かつてなかった」。後輩にこんな趣味があったのか。それとも二人の娘さんが選んだのだろうか。この話をあるところに書いたら、それを読んだ先輩は、あのとき「おまえは曲名を知っていたのに、おれを試した」と怒った。

 後日、先輩は自分の非を謝り、わたしにご馳走すると言ってくれた。しかし病気になり、帰らぬ人になった。わたしは葬儀に行かなかったので、葬送の曲が流れたかどうか、流れたとしたらどんな曲名だったか知らない。三回忌も過ぎたので、未亡人に訊いてみるか。

 先日、カトリック教会の葬儀に列席したら、聖歌隊の女性が歌っていた。おごそかである。仏式の葬儀に歌はないが、お経がその役割をしているのではないか。お寺で聴く読経の響きは心地よいものだ。美声の坊さんの読経はなおさらのこと、参拝者の心を洗ってくれる。仏式の葬儀では、お経の上手な坊さんを指名したいものだ。いまだかって、こんな注文をつけた施主はいないかもしれないが。

 わたしの唐突な質問に答えてくれた件の女性は、声楽を楽しみ、死の準備もしているのだろう。葬送の曲について考えているのは、今をより善く生きているからだ。故人が生前に選ぶ葬送の曲は、極楽へのパスポートかもしれない。

(一一・○二・○九)

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