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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の成長期(世界一、二位ではだめですか)

都甲 昌利

 1983年度の世界の民間航空会社の輸送実績統計によると、旅客と貨物を含めた国際線定期輸送実績で、日航が長年ライバル関係にあったパンアメリカン航空を上回り世界第一位になったとIATAが発表した。
 航空会社の輸送実績はどのように算出するのか。国際定期便で運ばれた旅客、貨物、郵便の量(トン数)に運送距離(キロメートル)を掛けた単位、有償トンキロメーターという単位で測る。つまり1トンを1キロ運んだ場合は1トンキロ、2トンを1キロ運んだ時、2トンキロ、1トンの物を2キロ輸送した時は同じ2トンキロと算出する。重量はすべて有償で無料の物は含まれない。日航は4,318(100万)有償トンキロであった。

 今考えるとこの頂点に立った時が下降に向かう最初の年だったような気がする。頂点になったということは、あとは下るしかない。一位を維持することは並大抵ではない。経営陣にも社員にも慢心はなかったか。当時、危機意識は希薄であったと言えそうだ。

 もう一つの要因としては航空憲法と言われた航空会社の棲み分けを政府が規定した45・47体制の終焉である。全日空の国際線進出と引き換えに日航の国内線への参入が認められた。しかし、高収益の出る路線ではなく赤字路線の地方空港の乗り入れが政府の意向で決定された。政府出資の日航としては拒否することはできなかった。その上、日航法により役員人事は運輸大臣の認可を得ることになっていて、政府が自由に日航を操った感がある。1980から1985年の5年間に運輸大臣が5人も代わっている。これでは日本の総合的な運輸政策は出来ない。

 更に凋落の前触れとして象徴的な出来事があった。羽田沖で起きた日航機「逆噴射」墜落事故である。原因は機長の操縦ミスとされたが、この機長が心身症を病んでいることが判明、どうしてそんな機長を乗務させたか日航の内部体質が問われる事件であった。1983年を頂点として日航は確実に衰亡の一途をたどったのではないかと思われる。

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