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「800字文学館」 体験記・紀行文

88年の生涯より(29)傍観者としての一生

大庭 定男

 私は、生活指針として「人知れず、コツコツと努力して止まない人生を送りたい」と努力してきた事を以前(二五)に書いたが、自分を取り巻く世間や時勢の成り行きに対しては傍観者としての立場を一貫してきた。

 小学校三年で満州事変、中学校三年でシナ事変勃発と、日々に軍国主義が色濃くなってゆく時代では、世間も、中学校当局も陸士、海兵というような軍関係の学校、或いは高等工業というような理科系の学校に進むことを、望み、期待したが私は高等商業を選んだ。軍人は性格的、能力的に合わないし、頭が理数系でもないことを自覚していたためである。

 私が進んだ小樽高等商業は自由の気風が流れていた。当時、日本学生協会というような右翼系の団体の働きかけもあったが、これを支持したのはほんの少数の学生にとどまった。当時、夏季、春季休暇中などに、昼間は勤労、夜は討論を通じて鍛えてゆくことを目指す学生義勇軍という組織(会長 有馬農林大臣)があり、私は内原(満蒙青少年義勇軍訓練所)、茅ヶ崎(水路建設)、山梨県(ブドウ畑整理)の訓練に参加、夜は大学・高専よりの参加者間で中道左派的な議論に熱中、また、土地のリーダーたちとの意見交換も楽しかった。

 五年間に近い兵役中、三年半はジャワで過ごし、伝えられる戦中の内地の空襲、食糧難などは遠い国のことのように感じられた。

 復員後の会社員生活でも、会社に組合が出来た時にはすでに管理職になっていた。

 以上のように、声高に時局を論じ、時勢を慨嘆し、会社と対立するというようなことにはほとんど関係ない人生であった。その為、「君の同世代の多くが戦死し、或いは敗戦後に苦労したではないか」と非難されるかもしれない。しかし、ジャワ引き揚げの最期に400名が残留しなければならなかったとき、数名の学徒兵たちと共に、私は志願してこれに加わったことをあげたい。宮元静雄(ジャワ16軍参謀)はこの志願をその「ジャワ終戦処理記」に感謝の念を込めて記している。

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