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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

空襲でふるさとを失ったM君の思い

上原 利夫

 大阪靭(うつぼ)の幼稚園から国民学校四年の夏(昭和十九年)まで五年余りの想い出が、われわれの同窓会を支えている。縁故疎開や集団疎開で生徒は離散し、翌年三月十三日の大空襲でみんなの家は焼けた。その三十数年後に数名が再会、爾来三十数年この会は続いている。M君が行方不明者の現住所を調べたのである。

 そのM君が昨秋急逝した。M君の家は浄土真宗本願寺派のお寺だった。大空襲の夜、一家は火の中を靭から豊中の親戚へ逃れた。弟さんがお寺を継いだが、M君は大学を卒業して市役所に就職し、助役になった。仕事柄、行方不明者を探すコツを心得ていたらしく、男子二十二名、女子二十名の住所が分った。幼稚園の卒園写真の約半数を探し当てた。同窓会出席者は六名から始まり、最多は二十一名になった。今では十数名がやっとである。今年は、氏神さんだった御霊(ごりょう)神社近くの「美々卯」で開き、昨年幹事をしてくれたM君を追悼する。葬儀が故人の遺志により家族葬となったからである。

 靭は、戦後進駐軍の飛行場になり、いま靭公園になっている。M君は戦前の靭の地図を再現し、級友の家の場所を書き込んでくれた。靭の町は古い。信長が破壊した石山本願寺と寺内町(じないまち)の跡に秀吉が大坂城を築いた。靭はその城下町にあり、塩干魚商や陶器商が集まっていた。靭小学校の歴史も古いが、われわれが入学した年の十二月八日に戦争が始まり、二年のとき、靭は東江(とうこう)に併合された。

 われわれは靭の最後の一年生で、校名は西船場に変わったが、クラス編成は靭と東江のまま。だから、わが会名も西船場を使わない。親も通った同じ学校だし、ノスタルジアは強い。靭の校舎は、国民学校から商業学校さらに工業学校に変わり、戦後は大阪市立大学へ。大阪市大の杉本町校舎が進駐軍に接収されたからである。

 M君もわれわれも、戦争犠牲者であることを忘れない。

(一一・○二・二四)

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