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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

長江文明と稲作

稲宮 健一

 約5000年以前に長江流域各地に古代文明が存在していたことが、最近の遺跡の発掘より明らかになってきている。この流域は稲作の起源になる所で、稲作はここから日本に伝わった。

 発見の発端は1993年の中国浙江省の河姆渡遺跡の発掘である。ここには7600年前の稲作の遺跡があり、他には高床式の建物や、農具が見つかっているので、既にかなり発達した段階と推察できる。そこから、稲の起源は麦と同様に128000年前位と考えられる。その後、1996年に長江流域の日中共同の学術調査が四川省の龍馬古城宝遺跡から始まった。

 環境考古学では地層に含まれている炭素の同位元素や、花粉を採取して、分析することで、当時の環境を推測できる。その結果、長江流域は常緑広葉樹の茂る森に囲まれて湿潤の気候であった。この点で、他のメソポタミア、エジプト、インダスなど、乾燥地帯の大河のほとりに開けた文明と異なる。

 さらに、気象学的に見ると、1万年前から6500年位まで、温暖な気温が続いたが、6500年位から乾燥が始まり、そのため、城塞を作り、ため池を作り、水を管理するようになった。そして、約4000年位から寒冷化、乾燥化が始まり、北方の青銅器を持ち、馬に乗った畑作牧畜の北の民が押し寄せてきた。長江流域に住んでいた人達は北の民と融合したり、一部は山岳地帯や、台湾や、日本に移住したと考えられる。そして、長江文明は段々と衰退していった。

 雲南省、貴州省の山岳地帯に住む苗族がその末裔と考えられている。日本に渡って来た人々は、稲作の文化を伝え、弥生文化の礎を築いた。苗族、台湾の生番族、倭人には何か共通した感覚があると言われている。

 稲作は水の管理、苗、草取り、収穫と濃密な農作業が必要で、集団での共同作業が求められる。稲作文化に依って築かれた村社会は日本の精神構造に深く関わっている。さらに、麦作牧畜の文化と比較すると別の社会習慣が見えてくる。

安田喜憲著「長江文明の謎」古代日本のルーツ 青春出版社、
河姆渡{かぼと}
龍馬古城宝{りょうまこじょうほうとん}
苗族{みゃお}

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