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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の衰退期(1)(御巣鷹山事故)

都甲 昌利

 1985年8月に起きた日航ジャンボ機の墜落事故は日航の衰退への象徴的な出来事だったと言えそうだ。

 日航123便羽田発大阪伊丹行、ボーイング747型機が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山の尾根に墜落した事故である。乗客乗員520名が死亡しこれまでの航空事故の中で一機としては最大のものとなった。メーカーのボーイング社や世界の航空関係者の間ではジャンボ機は落ちないという「神話」があった。それが墜落したということで世界中に衝撃が走った。あまりにも衝撃的な事故だったため、「自衛隊の無人標的機と衝突した」とか「米軍によって撃墜された」などの異説も登場し、それらの主張者による書籍も出版されたほどだ。

 早速、事故調査委員会が設置され原因究明に当たり、2年後の1987年6月に、原因は 後部圧力隔壁が損壊し、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。さらに遠因として同機の大阪空港での「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態)であったことに起因すると調査委員会は発表した。ボーイング社は何故不完全な修理をしたか、そしてどうしてそれをJALが確認しなかったのか疑問が残る。

 航空事故の90%はパイロットのミスといわれているが、この事故は整備ミスと云うことで注目された。日航の整備体制を含む日航の経営体質そのものにも不備があったのではないかと、政府関係者が批判を強め政府主導の総改革が行われた。

 当時の政権の座にあった中曽根首相はカネボウの伊藤淳二会長を送り込んできた。彼は組合の幹部を経営陣に加えて組織の大変革を断行した。彼らは進駐軍と呼ばれ旧経営陣の反発を招いた。これを題材として、作家山崎豊子は小説「沈まぬ太陽」を書いた。まさに御巣鷹山事故は政治を巻き込んだ大事件になった。

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