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「800字文学館」 日常生活雑感

忘れ物

濱田 優(ゆたか)

 今や昔、現役も終わりに近い頃、私は渋谷松涛の高級スポーツクラブのメンバーだった。
 いや、見栄を張って嘘をつくのはよくない。そこは、破綻した高級スポーツクラブを大手スーパーのオーナーが買い取り、スーパー流に会費を安くして会員数を大幅に増やすとともに、施設の改造や運営の改革を図ったところだ。
 とはいえ、心和むミニ庭園に囲まれた屋外ジャクジーなどの施設には、以前の面影が残っている。

 このクラブの受付の女性は接客マナーがいい。これも前からのよい習慣の名残か。中でもTさんは、美人なのにお茶目で、話すと当意即妙の答が返ってきて楽しい。だから私は受付で彼女に会えた日は機嫌がいい(単純!)。

 彼女も心なしか私に満更でもないようだ。ここのロッカーは旧式で、受付が鍵出しをしたロッカーを使う。詰め込み主義の結果、ロッカールームは通路際を除いて着がえの場所が狭い。体の大きい私は狭いところは苦手だ。Tさんは心配りをして、私には通路際のロッカーの鍵を渡してくれる。
 忘れ物も、後で気づいて彼女に電話をすると、ちゃんと取り置きしておいてくれる。しかも受領はノーサインでOKだ。

 一度、食事でも奢らないといけないな。何処に誘うか、と思いを巡らせていたときに、また忘れ物をした。しかしこれは彼女に頼めない。なぜって、汗まみれになったパンツ、それも今時お爺さんか子供しか穿かないグンゼの白いブリーフだもの。黙っていよう。
 次に行ったときの帰り、Tさんに呼び止められた。
「これ、あなたのでしょう」
見返ると、笑いながら、ブリーフが入ったポリ袋を差し出している。
 顔から火が出た。私は慌てて受け取るや外に飛び出した。

 なぜ持ち主がわかったか。家に帰って忘れ物を広げると、なんと目立たぬところに私の名前が書き込まれているではないか。家内に聞けば、大きくなった息子の下着と区別するために名前を付けたという。逆に聞かれた。
「で、何かまずいことでもあったの」

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