政治・経済・社会
明治三陸津波の25年後
こんどの地震津波の被害が大きかった岩手、宮城、福島の沿岸部は、歴史上大きな津波に遭っている。
特に1896年(明治29年)の三陸津波は、前触れがなく不意に来たので被害が大きかった。三陸地方を中心に、流出、全壊、半壊の家屋は1万戸、死者2,2二万人、一家全滅した家が230戸に及ぶなどその惨状は後々まで伝えられている。
この災害から25年後の1920年(大正九年)、柳田国男は三陸南部の唐桑(現・気仙沼市)を訪れ、朝日新聞のコラムに「二十五箇年後」という短文を寄せた。全滅してから25年後の唐桑で語り継がれている哀話や村のその後の変わりようを観察している。
「宿」という40戸の集落は、一戸を除いて全部流されてしまう。残った家でも8歳の少年が流された、と当時14歳だった女性が話してくれた。
この少女も押し流され、柱と蚕棚に挟まれていたところを父親に助けられたという。
津波が来た夜、村の高台にあるだけの薪を集めて火をつけた。海に流された人たちがこの火をめがけて泳ぎ帰ったことを覚えているという。
赤ちゃんを二階に寝せて入浴していた母親が風呂桶のまま流されたが一命を取りとめ、三日後、倒壊した家の屋根を破って入ってみると赤ちゃんは怪我もなく元気だった、などの実話が語り継がれている。
大津波は、人々の境遇に善悪二様の影響を及ぼした。金持ちは貧乏に、貧しかった人はこの災害を活かして財をなしたといわれる。津波の危険がある海辺から高台に移転した人が後悔しているのに対し、生活が優先と浜近くに移った人は、商売や漁業で成功しているという。
一人ひとりの不幸な記憶は消えていないが、これを別にすれば、25年経った今、記憶は風化され、津波の疵は全く癒えているようにみえる。人口も増えていて津波の記念碑の前に立つ人はいない。人々は浜辺ではカツオ節作りやスルメ干しなど生産活動に余念がなかった。
あれから91年。柳田が見た唐桑はまた巨大な津波に襲われてしまった。
(11・3・29)