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「800字文学館」 日常生活雑感

母とお酒

平尾 富男

 気丈な母は、病院に運ばれたときから、「お父さんを残して先には逝けない」と言っていた。その約束を家族に果たせず、入院三ヶ月後に腎不全で天国に召される。入院する五年前に近所を歩いていたときに転び、股関節骨折で手術をしてからは体調がすぐれなかった。享年八十六歳。

 意識は最後まではっきりしていて、「迷惑を掛けて申し訳ないね」と病院に見舞うたびに言っていた。そしてある晩、私との数分の会話に疲れたのか、目を閉じて軽い寝息を立てて眠り始めた。握っていた母の手を離そうとすると、指に思い掛けない力を感じた。翌朝早く、病院から電話が入った。

 母は、生前日本酒を毎晩飲んだ。それもコップに一杯の冷や酒を、じっくり時間を掛けて舐めるように味わって飲むのだ。誰が何を言おうとそれ以上は絶対に飲もうともしない。日本酒以外のアルコールは、いくら勧められても「嫌いだから」とかたくなに拒んだ。年老いてからは化粧一つしなくなった母のしわだらけの顔は、お酒を美味しそうに飲むときだけはとても可愛らしかった。「お酒は百薬の長だけれど、お酒に飲まれては駄目だよ」と私によく言っていた。一旦飲み始めると、何時までも飲み続ける癖のある私を諌めるように。

 父も晩酌を欠かさなかったし、自他共に酒豪を認める弟も同居していたから、実家を訪れるといつも大宴会になる。それでも、家ではお酒を買ったことがないというのが母の自慢だ。昔から人の世話をよくした母のもとには、多くの一升瓶が盆暮れなどの贈答品として届けられていた。翌日自宅に帰る私の車に、母は何本かのお酒を積んでくれるのが常だった。

 正月に家族が集まって祝い酒をする以外、自宅では主に焼酎かワインを嗜み、ほとんど日本酒を飲まなくなった最近の私だが、母の命日には必ず冷酒をコップで味わうようにしている。若い頃の私には厳しかったが、晩年の優しい母の眼差しを思い出しながら。そしてそれも今年で八年目になる。

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