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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の衰退期(2)(民営化)

都甲 昌利

 1981年、日航航創立以来、実に30年ぶりで初めて生え抜きの高木養根社長が誕生した。高木社長は当時の中曽根内閣が推進する政府規制の緩和、民間活力を活用するという政策によって、国鉄の民営化と並んで日航も完全民営化の方針を打ち出した。高木社長は官僚や政治家達の支配から脱却を図った。しかし、日航はトップが一人くらい代わったからといって、改革ができるには余りにも組織が大きくなりすぎて、改革は遅々として進まなかった。改革のネックである労務対策は一向に解決しなかった。民営化によって日航がとった路線は経営の多角化である。大手私鉄の東急、西武、小田急など本業の運送業の他デパート、不動産業などに進出し経営の多角化を推進したのと似ている。
 日航は今まで規制で不可能だったホテル事業、教育事業、レストラン事業、出版事業などの子会社を次々設立し多角化を進めていった。特にホテル事業は莫大な投資を要する。大手銀行も後押しをして主体の日航開発は膨大な借金を抱える。のちにこの会社の経営は放漫経営といわれ日航の破綻の一原因であるといわれた。

 民営化を高らかに宣言した高木社長に悲劇が襲う。1985年に起きた御巣鷹山に墜落したJL123便の事故である。事故から4ヵ月後に責任を取って辞任する。政府はこの事故を重く見た。当時の臨調行革の答申書は「日航の経営体質の改善が出来ないときは、経営形態の抜本的見直しを行う必要がある」と記す。政府は日航の体質が原因で組織の大変革が必要との認識に立ち、鐘紡で労務対策に手腕を発揮した伊藤淳二会長を送り込んできた。規制緩和、官僚の天下りを禁止している手前、霞ヶ関からの派遣は出来なかった。しかし、社長には運輸省出身で山地進総務省元事務次官が就任した。この人事交代は功を奏したのか。否といわざるを得ない。政・官界の癒着が始まり日航は彼らの餌食にされた感があった。日航の迷走はまだまだ続く。

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