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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

遊歴の文人――菅江真澄のこと

大月 和彦

 菅江真澄(本名白井秀雄)は謎に包まれた不思議な人である。
 1754年(宝暦4年)三河の豊橋近辺に生まれ、1784年(天明4年)31歳の時放浪の旅に出る。信州、越後を経て出羽に入り、秋田で越冬してから津軽、南部、伊達領で過ごし、35歳の時蝦夷に渡り4年間各地を歩いた。その後下北半島へ渡り、2年半滞在した後、津軽を経て48歳のとき再び秋田に入る。佐竹候に乞われ藩の地誌編纂に携わり、1829年(文政12年)角館で死去した76歳。

 出身地や家族、旅に出た動機、旅の目的など不明な点が多い。通じていた和歌、国学、本草学をどこで学んだのか、訪ねた先の有力者の家や寺院を転々としていたが、その間の旅費はどうしていたのか、旅の制限が厳しかった当時どのように藩境を越えたのか、書いたとされる著作の在り処など判らないことが多い。
 確かなことは、旅を通じて庶民の暮らしぶりや素顔、土地の伝承や民話、年中行事、寺社の故事、山川草木の自然などを観察し、絵図入りで詳細に記録していることだ。
 信州松本で遭遇した天明の浅間山爆発の見聞記、天明大飢饉の直後の津軽の道端で見た逃散する人たちや散乱する白骨の記述はなまなましい。男鹿のナマハゲや横手のかまくらの描写は今なお新鮮だ。民俗学者柳田国男は早くから真澄の旅日記や随筆に関心を持ち、多くの論文やエッセイを著した。この放浪の旅人を遊歴文人と呼び、日本民俗学の先駆者と評価している。

 真澄が4半世紀を過ごし終焉の地となった秋田県では、県立博物館に菅江真澄資料センターを置き、資料の保存収集と真澄研究を進めている。博物館近くには江戸時代の豪農旧奈良家の住宅がある。真澄が滞在した部屋が保存されている。この放浪の文人を大切に扱い優遇した秋田地方の文化の深さを知ることができる。

 おびただしい地名が出てくる東北地方の旅日記を、5万分の1地図と突き合わせながら読んで真澄の世界を想像するは楽しい。

(11・4・28)

参考『菅江真澄遊覧記』全5巻(内田武志・宮本常一編訳、平凡社東洋文庫)

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