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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の衰退期(3)(伊藤会長の退陣)

都甲 昌利

 1987年3月、丸の内の東京ビルにあった日航本社9階の役員会議室で伊藤会長を議長とする臨時取締役会が開かれた。すでに運輸大臣に辞表を提出していた伊藤会長はこの席で全取締役を前にして辞任を表明した。

 中曽根首相によって送り込まれた伊藤会長が何故任期を3ヶ月残して辞任したのか。理由は子会社の放漫経営やHSSTの黒い疑惑などを解決できなかったことなど様々だが、日航の経営上、最大の問題である労働組合対策に挫折したのではないか、と思われる。日航の経営上の行き詰まりが労使関係に起因しているとして、カネボウにおいて組合対策に手腕を発揮して、カネボウを再建させたことで期待されて日航に送られてきたのだから。

 日航には労働組合が八つある。JAL労働組合、日本航空労働組合、機長組合、乗員組合、キャビンクルーユニオンなどである。労働条件や給与体系などが、それぞれ異なるので止むを得ない事情があるが、問題は組合が会社側の御用組合か、そうでない組合とはっきり分かれて抗争をしていたことによる。

 伊藤会長の労務対策と人事対策は革命的といってよい。経営陣から御用組合出身の幹部を追放し、これまで反会社側の組合幹部出身者を経営陣の中枢に据えたことだ。これが裏目に出た。逆に組合間の抗争を激化したことになり、伊藤労政は失敗に終わった。
 伊藤会長退陣劇の背後にはもっと複雑な事情があった。政権与党である自民党の族議員の存在である。彼らは日航の路線権とそれに伴う空港建設で日航を大いに利用した。伊藤会長排斥後、東京海上火災出身の渡辺文夫氏が会長に就任、運輸省出身の山地進社長が経営の実権を握った。

 日本の航空業界は自由化の波に晒され、国内線に有利な地盤を築いた全日空の追い上げで日航は苦慮に立たされていた。日本はバブル景気に沸いており、日航も収支上は神風が吹いたが、これは一時的で根本的な体質改革にはならなかった。
 日航の迷走はまだまだ続く。

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