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88年の生涯より(32)忘れえぬ人々(3) 陸軍少将 馬淵逸雄(その3)

大庭 定男

 馬淵少将(当時、中佐)はシナ事変初期、上海の中支派遣軍報道部長を務められた。日本軍が占領地を拡大し、住民虐殺などの不正行為が頻発するなかで中国の国民、諸外国の報道人などに「東亜新秩序建設」の大義名分を説いても、容易には受け入れられなかった。

 同時に、日々に増大する日本軍のための陣中新聞が必要になり、「長江戦陣譚」を発行し始めた。内容は同盟通信のニュースを中心に兵士たちの投書文芸欄や郷土便り欄で、従軍していた火野葦平はよく投稿、間もなく開始された徐州作戦には報道部員として参加、名作「麦と兵隊」を書きあげた。

 この火野葦平を部隊より貰い受ける時には、出し渋る連隊長を説得するため、馬淵中佐は何回も足を運んだ。数年後、ジャワの旅団長になられた時、昼食時に将校達にこの時の話をされ、「軍隊では命令一本ですべてが動くものではない。情理を尽くして説得することを心掛けよ」とよく話された。

 火野は「麦と兵隊」のあとがきで、徐州作戦に出発する際、中佐に挨拶に行き、帰ろうとすると呼び止められ、「拳銃を持っているか」と聞かれ、「持っておりません」と答えると「それではこれを持ってゆけ」と自分の拳銃を投げてよこした。感激した火野は「自分はこの人のためには命を投げ出してよい」と思ったと述懐している。

 上海時代には中国人向けの新聞も発行したが、さっぱり売れない。止むなく、無料で、中国人の名士などに送りつけると、「かかる漢奸(売国奴)の新聞は読むに堪えない」という付箋付きで返送されたきたという。

 このように中国で苦労されておられる間に、中国人や文化についての深い理解をされたと思われる。後年、ジャワの旅団長になられてからも「大東亜戦争はシナとの戦争を解決しなければ終えることはできない。ジャワの華僑に親切にすれば直ぐ重慶に通ずる」事を力説し続けられた。

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