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「800字文学館」 日常生活雑感

旧安田楠雄邸『端午の節句』

中川路 明

 受災後五十日、膝の痛みも少し回復した。窓際で涼風を楽しませた手つくり八本の金管チャイム、ほとんど殆ど毎日続いた揺れの響きも減った。気晴らしに待望の武者人形公開に出かける。
 安田財閥安田善次郎の孫、楠雄氏の居宅は千駄木にある。大正七年築の、伝統的和風建築と山水庭園で、都名勝に指定されている。神戸の私の家に似ており懐かしく、二十年前奥様にご案内を請うたのが最初。雛祭り、重陽の菊展,建物公開と再三伺い、端午の節句のみが残っていた。勿論、建具調度は弊宅と段違いだが、歩く廊下、台所の床の軋み、ねじ締めのガラス戸、広い縁下の空間が私を幼時に引き戻してくれる。
 ラグビーボールだけを飾った三男坊の私と違い、孫の初節句祝いの五月人形は、陣幕を巡らした残月床の中央に、金小札朱糸縅大鎧(きんこざね あかいとおどし おおよろい)、左右に矢屏風、陣羽織、弓矢、腰刀が並ぶ。下段に法螺貝、軍扇、陣太鼓、陣笠 、幟、悉く七つ輪違いの安田家家紋入り。木工、金工、漆、染織すべて三代永徳斎の華美なつくりだった。丁寧なご案内を謝して門を出た。団子坂を横断、森鴎外の散歩道藪下通りに入る。観潮楼は工事中だが不忍通りのビルの間にスカイツリーを望む。鴎外が見たら何と言うだろう。
 さらに南に向い、丁度つつじ祭りの根津神社に出た。平安を祈った朱と金箔の映える社殿の左手、参詣者に賑うつつじが岡は千本を超える色とりどりの満開だった。足元の弁天池真ん中の岩の上に、体長尺近い亀が折り重なって甲羅を干している。
 暗い日々を癒そうと思い立った、皐月晴の谷根千の午後の逍遥に安らいだ。小さなつつじのみやげ苗をぶら下げ、脚は痛むが恵まれた時間に感謝した。

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