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「800字文学館」 日常生活雑感

祖父の世代

稲宮 健一

 もの心付いた頃、世田谷上馬の家には祖父から孫までの三世代家族が当たり前のように住んでいた。祖父の世代に金沢から世田谷に移住してきた。
 赤貧の家に長男として生まれた祖父は高等小学校を卒業すると、薬屋の丁稚として働き、やがて兵隊に志願した。軍服の祖父、祖母、父と叔母の家族写真が残っている
 軍人から神奈川電気(株)に転職した。会社では厚遇を得て、取締役に任ぜられている。会社では叩き上げの人と強い絆が築けたようで、退職後も多く人が家に訪ねてきて、人生相談に花を咲かせていた。これらの人々に招かれ、古稀を雅叙園で祝ってもらっている。
 祖父が亡くなってから、軍人時代のことを二度聞く機会があった。一度は葬儀の時、祖父の弟から、兄は日露戦争の旅順攻防二〇三高地で、大勢の死傷者の山に埋もれていたが、その中から助かりそうな人を選んで内地に帰した。九死に一生を得て生還したとのことである。
 また、私の学生時代、大学の傍の三浦歯科にかかったところ、私の苗字が珍しいので、祖父とのゆかりを尋ねられた。彼は衛生兵で、戦地で一緒だった。歯医者によると、祖父は口うるさかった。衛生兵にとって、煙たい存在であったようだ。
 しかし、家では整理整頓、掃除など口やかましかったが、晩酌で上機嫌になっても、戦争や、軍人時代のことを祖父から聞いた覚えがない。
 退役後、金沢のころに憧れていた百坪足らずの自宅をようやく構え、一家団欒を楽しんだのだと思う。家にはこじんまりした和風の庭や、不釣り合いな、瓦葺の屋根の付いた門があった。この門は金沢の裕福な家の目印でもあった。この自宅を大事にする気持ちは強く、終戦直前の空襲の激しいとき、私達を疎開させても、ここを離れなかった。
 横浜の我が家には、会社時代の百人を超す人と、社員旅行で各地の観光地を訪ねた記念写真のアルバムが残っている。また、錆付いているが、二〇三高地で使われた指揮剣が保存されている。

(二〇一一・六・二四)

神奈川電気:現在のカナデン

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