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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

88年の生涯より(33)忘れえぬ人々(4)第一通商社長 今井富之助

大庭 定男

 一九四七年五月、私がジャワより復員した頃、GHQ命令により、三井物産、三菱商事が解体され、多くの新会社が資本金限度の一九万五千円で発足していた。私は三井物産静岡支店勤務者が作った静岡貿易という会社に就職、さらに一九五〇年の初め、上京、同系の第一通商に移った。
 「日本経済にとっての神風か」と言われた朝鮮戦争勃発(一九五〇年)は商社にも福の神で、米軍買い付けにはメーカーの窓口として活躍、増加する輸出入にも多忙を極めた。
 しかし、この好況は長続きせず、翌五一年、朝鮮戦争休戦と共にバブルは弾け、各商社は莫大な不良債権を背負うことになった。第一通商はその筆頭であった。
 盆、暮れのボーナスも出ない、僅かに一二月三一日に三千円の「餅代」を支給され、これも帰途、やけ酒に消えてしまい、ミカン一袋をもって、帰りを待つ妻子のもとに帰った社員が多かった。
 旧物産常務・今井富之助さんが銀行より送り込まれたのはこのころであった。今井さんは「大風呂敷」、「マルクスよりケインズまで」といわれた傑物であり、読書家であった。社長で着任すると、毎夕、一つの部全員より担当業務のレクチャーを受け、適切なコメント、指示を与え、「地球上には暑いところと寒いところがある。暑いところの物を寒いところに持って行けば商売のチャンスはいくらでもある」と激励されたり、大日本加里会社による欧州産カリ独占輸入カルテルに風穴を開けようと画策されたりした。
 晩年には南スマトラに三井物産とインドネシア退役軍人協会との合弁会社(Mitsugoro)を設立、大規模な玉蜀黍農場を開拓した。象や虎の出没する地区で生産された玉蜀黍は日本に輸入され家畜の飼料となっている。
 今井さんが「戦中、『中国奥地に集買に出した物産社員には、君たちに万一のことあれば銅像を建ててあげる』と約束したが、僕はまだこの約束を果たしていない」と言われた時の寂しそうな顔が忘れられない。

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