政治・経済・社会
警鐘を鳴らし続けた男たち
この度の大震災に際し、押し迫る大津波のなかで半鐘を叩き続け、遂に自ら海嘯に飲み込まれた勇敢な消防士の話には心を打たれる。
太平洋戦争に対しても米国との戦いに最後まで警鐘を鳴らしていた一人の海軍元大佐がいた。水野広徳である。『坂の上の雲』の主人公である秋山真之に遅れること七年、明治八年に同じ伊予松山に生まれた。長い坂道の先、青空に浮かぶ白い雲を目指して、彼も海軍兵学校を卒業し、日本海海戦では水雷艇長として奮戦する。日露戦争後には、『此一戦』と題する海戦史を著わし、広く世の注目を浴び、軍国主義敷延の先頭に立った。
ところが大正八年、第一次世界大戦後の欧州視察に赴き、その惨状を目にするや、自らの思想を反戦へと大転回する。世界の中で一国のみ急坂を登り、頭上の青空を眺めて有頂天に沸く日本社会のなかで、彼は遠くに暗雲を見つけ、遠雷を聞いたのである。軍上層部に視察報告をするも、意見は取り入れられず、日本軍部は独善的な軍国主義への坂道をさらに登り続ける。
大正十年に彼は現役を引退し、尾崎行雄らと軍縮運動を始める。大正十三年には政府が米国を仮想敵国として「新国防方針」を発表するや、これに対し中央公論誌上で愛国の至情を傾けてその批判の論陣を張った。以降もその姿勢は変わらず、昭和十二年には海軍大臣宛に「海軍の自主的態度を望む」と題する公開状も発表した。その警鐘も空しく、日本は米国と戦い、坂の上から崖下に転落する。彼も終戦の年に病で息を引き取った。さぞ無念でやるせない思いであったろう。
今回の福島原発の大事故に先立っても高木仁三郎のように当初は原子力平和利用を志しながら途中でその危険性に気付き、勇敢に警鐘を鳴らしていた人たちもいた。しかしその音は為政者や多くの人たちの耳に届かず、届いても心には響かなかった。私も控え目ながら原発について警告を発していた。その為か、かかる男たちへの強い思いが募ってくる。