体験記・紀行文
思い出の記(心の故郷)
(一)仙台への疎開
「ああ、アキヤ君か?私は大丈夫だ。が、A君とB君は行方不明のままだよ」
東日本大震災のあと心配で何回も仙台在住の恩師曽我先生に電話したが全く通ぜず、五日後にやっと連絡がとれたのだった。
私は小学校二年の秋に、父の転勤に伴い、所謂、縁故疎開で仙台に引っ越した。両親と、六歳、四歳の二人の妹の夫々の身の回りのものと、鍋釜を詰めた二個の大きな風呂敷包みが手荷物の全てであった。
当時は旅行といえども、男は戦闘帽に国民服、女は姉さん被りのモンペ姿だった。朝、旧型の蒸気機関車に引かれ上野を発ち、夕方郡山に着き一泊した。
灯火管制下の暗い駅前から、その頃は珍しかったリンタクに乗り、近くの旅館に着いた。父親が仙台軍需監理局の繊維担当だった関係で、物資を回して欲しい現地の繊維業者が全ての手配をしてくれたものらしい。旅館での広い風呂場も、個々に小卓が付く食事も初めての経験だった。
翌日仙台には午後早めに着いた。そこでも出迎えの業者はいたが、駅から四十分ほどの引越し先にゆくのにバスもタクシーもなかった。偶然、父の役所の局長が駅前で車から降りるところに出くわし、その車で、家族を家まで運んで貰った。カーキ色に塗られた大型のフォードのような車だった。家は市内西端の、作並街道の入り口に近い、大崎八幡宮と広瀬川の間に位置する借家だった。
二日後、母と共に名門といわれる宮城女子師範の付属国民学校に行った。教官室に案内され教頭先生に会った。「定員一杯でこの時期の転入は無理です」という教頭に、強気な母は「それではテストだけでもして見て下さい」と粘った。
東京の学校のほうが教育進度が早かったのか、国語も算数も習った問題ばかりでどちらも満点近くの成績だった。成績を見て教頭は「うーん、ちょっと主事先生と相談します」とのことで、翌日からの転校がきまった。
校内で、半ズボン姿で通学し、母親を「オカーチャマ」と呼ぶ子は私一人だった。慣れない疎開生活がはじまった。昭和十九年のことである。
(二)疎開っ子
東京育ちの子供たちにとって近所の子供からのイジメは酷かった。師範付属国民学校に入れなくて、近くにある市立八幡町国民学校に入学した洟垂れ小僧の集団が近所にいて、脅威であった。
常に七、八人で行動し、私を見ると疾風のように走ってきて、ウムをいわさず殴りかかるのである。疎開っ子は鼻血を流し、泣きながら家に逃げ帰るのが常であった。通りがかりの大人は見てみぬ振りをして、誰も助けてくれなかった。
当時の仙台の冬は厳しかった。降雪も頻繁で、一晩に三十センチは積もった。日陰に積もった雪はそのまま氷結し春まで溶けなかった。底の擦り切れたズック靴は直ぐに浸みて、帰宅後に炬燵に足を突っ込み、靴下を乾かすのが日課だった。入浴後の手ぬぐいが見る間に棒状に凍り、毎朝ガラス窓には氷の花が咲いた。
霜焼けで手足はパンパンに腫れ、やがてひび割れになった。防空頭巾が防寒具との兼用だったが、両耳とも霜焼け部分が膿んで、耳の形が崩れた。
学校から、「中村君に長ズボンをはかせてください」との手紙を持たせられた。長ズボンがないので父親のズボン下を縮めたものの上から半ズボンを穿かせられた。
学校の教室の隅に亜炭ストーブがあったが、亜炭は不足勝ちで、みな粗末な防寒着のままで授業を受けた。寒いので四六時中足を動かして貧乏ゆすりをしないではいられなかった。弁当の凍結防止のために、ストーブの周りに金網製の弁当置き場があり、良い置き場所をとるために早く登校した。
ひと冬過ぎて、三年生の新学期からは、教室での授業は極端に減り、校庭を掘り返して芋を植えたり、自生するクローバーを乾燥して、飼料用に供出したりした。飛行機の潤滑油に使うヒマシ油を採るためトウゴマという植物を植えさせられた。
もう母親を呼ぶのに、オカーチャマではなく、オッカチャと呼ぶようになった。
その頃から塩釜や石巻の港、仙台市では亀岡八幡宮近くにある第二師団の高射砲陣地への、米艦載機による散発的な空襲が始まっていた。
(三)仙台空襲
忘れもしない昭和二十年七月九日。
その日の夕方、父と市内に住む父の同僚とで広瀬川に鮎釣りにいった。賢淵という深いトロ場があり、毛ばりを使ったドブ釣で、十センチ大の稚鮎が魚篭一杯釣れた。帰り際に父が、同僚のおじさんに、「これは秘密事項だが市内に、『仙台よい町森の町、七月十日は灰の町』というビラが撒かれているそうだ。もし今夜にでも本当に空襲があったら、私の家に来なさい」といって別れた。
翌朝未明、眼を覚ました母が「大変だ。大火事だよ!」と絶叫した。市役所方面の空は一面真っ赤で、無数の火の粉が舞っている。この夜、百二十機のB二十九が二十波に分かれ約十一万個の大型焼夷弾を無差別に撒き散らしたのだ。
子供達は押入れの下段に避難するように指示されたが、私は興奮して何回も庭で小便をした。上空には三機編隊の敵機が悠然と旋回している。キラキラ光る機体からパラパラ何かが落ちてくる。突然、前の家の板塀に焼夷弾が落ち火炎が音を立てた。消防隊長だった父が大声で隣人を指揮し、湿った筵と砂をかぶせて延焼を防いだ。
数時間ほど経つと、前夜釣に同行した人が、家族とともに現れた。空襲警報もなく気付いたときは、周囲は火の海だったと言う。続いて焼け出された人々が、疲れ切った足取りで家の前を通る。私は炊き出しを命じられたが、薪が湿っていて着火しない。父が焼夷弾についていた油脂を持ってきて「これを薪につけるとよく燃えるぞ」と言った。母が、嬰児を背負った若い女を呼び止め、赤ちゃんにおも湯をのませ、お母さんにおにぎりと浴衣を持たせて「オシメに使いなさい」と言っている。
広瀬川の河原に逃げた人が帰ってきた。我々の町を狙った焼夷弾は風に流されて広瀬川に落ち、河原は焦熱地獄と化して、大勢の人が焼死したそうだ。翌日、叔母と市内の焼け跡を見に行った。人形大の丸焦げ肢体があった。膝の関節の白い骨を今でも鮮明に覚えている。
(四)敗戦
一ヵ月後の八月七日にソ連が参戦。ただし我々は、その前日に広島に新型爆弾が落ちたことは知らなかった。
直立不動の姿勢でラジオの詔勅を聞いたが雑音で内容は聞き取れなかった。母が泣きながら「戦争に負けたんだよ」と言った。「日本人は軍部にだまされていたんだ」と昨日まで皇軍不敗を叫んでいた新聞が書きたてた。
夏休み後の新学期は、これまでの教科書(特に国語と修身)に墨を塗ることから始まった。新着の教科書は新聞用紙の裏表に印刷されていて、手順よく畳むとA5版十六ページの薄い教科書が出来上がる仕組みだった。夏休み前の終業式で「日本は絶対勝つ」と断言していた担任の先生が、二学期になると「それでは算数のブックを開いて」と言ったのには驚いた。
続々と兵役から先生方が復員してきた。九十九里で塹壕を掘ったり、松島で水上飛行機の整備をしたり、江田島の海軍兵学校戻りの先生もいた。軍服軍靴の先生方は直ぐに殴るので怖かった。
その中に、このシリーズの冒頭に電話した曽我先生が居られた。仙台弁丸出しで、甘党の先生は、分数を教えるときは必ず羊羹の絵を描いて説明した。サントニン駆虫剤を配布したあと、回虫が尻から出るときはこうして引っ張れと、四つ這いになって教えてくれた。先生の実家は名取郡増田町(現在の名取市中心部)の農家で田圃に囲まれていた。近くに貞山堀や八間堀があり、担任になってから良く泊めてもらって鮒釣りをした。(その周辺は今回の津波で完全に水没した。)
一方、敗戦後の食糧難は益々酷くなり、食事は芋入りの麦雑炊が主で、時には蒟蒻や大根の葉で増量されていた。兄妹で順繰りに日を決めて、一人で鍋の底にこびりついたおこげを食べるのが楽しみだった。母の着物を食料に交換すべく、母子で作並街道を数時間歩いて山間の農家を訪ね歩いた。そこで貰った白米の握り飯を頬張ったのを覚えている。
米が足りないので、代わりに馬鈴薯やその頃大漁だった鱈、米国支給のキューバの砂糖や乾燥リンゴなどが配給になった。スカンポの茎を噛んですっぱい汁で空腹を紛らわした。
(五)戦後の生活
この終戦の年の冬、五歳の妹が肺炎に罹り、四十度の高熱が続いて危なかった。東北大病院の医師が、一般には手に入らないペニシリンという特効薬があると話した。父が奔走して進駐軍の医師からアンプルを入手し、妹は一命を取り止めた。
翌年になると市内の焼け跡に、テント地とトタン屋根からなる闇市が形成され、放出の缶詰や洋モクなどが店頭に並んだ。米兵から貰ったチョコやチュウインガムを売っている浮浪児も多かった。この頃学校では脱脂粉乳の給食に新顔のコッペパンが加わった。
ダンサーと呼ばれる米兵相手の女性の、原色のスカーフやハイヒールを見て疎ましく思ったが、彼女らは殆んどが、子持ちの戦争未亡人で専用の託児所に寝泊りしていた。カーテン用の布地が配給されると、彼女達のドレスが一様にカーテン柄になった。
昭和二十一年、四年生になって、仙台市外の野蒜海岸でラジオの街頭録音があった。地元の人はマイクを向けると逃げてしまうので、私が地元の子に扮して出演した。これが縁で私はNHK仙台局の児童放送劇団に入り、子供ニュース、子供二重の扉などの番組のレギュラーになった。出演料は鉛筆一ダースとかノートだったが当時は貴重品だった。
この年、犬の子を貰った。雑種のメスで余計なものを貰ってと母からえらく怒られた。どこに行くにも付いてきて、学校の中は勿論、市電の中にも飛び込んできて車掌を慌てさせた。広瀬川の中洲で行われた学年の芋煮会では、全員注視のなか、対岸から川を泳いで渡って来て喝采を浴び、近所で有名になった。この犬は我々一家が東京へ越すときには、檻にいれられ貨物列車で上京した。
放課後は犬を連れて、ほとんど毎日広瀬川に遊びに行った。近くの三居沢発電所の放水路には大きなウグイ、ハヤなどが見えるのだがなかなか釣れなかった。これは日本で最初の水力発電所だと後で知った。その頃は知らなかったが正月のどんと祭や流鏑馬のあった近所の大崎八幡宮も桃山建築とのことで今では国宝である。
(六)上級生になって
五年生から男女混合のクラスになった。坊主で丸顔の私は早速女の子からジャガイモなるあだ名を貰った。担任が曽我先生になり私は卒業まで二年間、二人の妹も一年間ずつお世話になった。戦後二年を経過し、国全体がそれなりに軌道に乗り始めた。
東京から親戚が入れ替わり仙台に来るので、石段の多い塩釜神社に参詣後、遊覧船に乗って松島まで行き、五大堂、瑞巌寺をまわってくる観光コースを案内するのが常であった。
夏休みの臨海学校は石巻市の渡波小学校に寝泊りして行われた。石巻港の岸壁に棲んでいる渡り蟹を獲ったり、海に向かってハサミを上下している汐マネキという小蟹を獲っては焼いて食べた。また、先生のお供で女川漁港に出かけ、揚がったばかりのカツオを船から直接買って、尾に紐をかけて持って帰った。当時はポリ袋なんて便利な包材はなかった。
鮎川港では、金華山沖で獲れた二頭の鯨を船尾につけ、誇らしげに気笛を鳴らしながら捕鯨船が入港してきた。長刀を持った作業員がウインチの力を借りて厚い鯨の皮膚を剥がすとモウモウたる湯気が立ち、内臓を開くとダンプ数杯分のオキアミが出てきた。まだ温かい鯨肉を荒縄でぶら下げて宿舎に帰り刺身と焼肉を鱈腹食べた。
クリスマス近くになるとプレゼント目当てに教会の日曜学校に通った。日本で赤い羽根共同募金を提唱し、「少年の家」で有名なフラナガン神父が訪仙した際、私達の教会に立ち寄った。その時、私は神父様に花束を上げる係りだった。でも彼の名刺を大切に保管している。
市内には評定ケ原野球場という小さな球場があって、年に数回プロ野球の試合が行われた。私はそこで幸運にも、赤バットの川上選手の一インニング二ホーマの快挙を目のあたりにした。昭和二十三年五月十六日のことである。
当時はタイガースの黄金時代で、私は若林、土井垣のバッテリー、藤村、別当などの打撃陣に魅せられて、以来ずっと阪神ファンだ。
この頃は、貧しくはあったが、みんな元気で、精神的には決して貧困ではなかった。
(七)カレーライス
仙台での楽しい時期はあっという間に過ぎた。父が官吏を辞め、民間の会社に移ることになり、我々一家も六年間お世話になった仙台を離れ、帰京することになった。
ご縁があって我々三人兄妹の夫々のクラスの担任教師を勤められた曽我先生は、送別会をするからといって三人を自宅に招待してくれた。教え子の父兄の離れを借りて改造した小さな家だった。
「先生はな、貧乏たらしだから、立派な送別会はやれねんだ。その代わり一生忘れられないような送別会をやっからな。今日の肉は牛肉だぞ。ドッサリへえったカレーをうんと作ったから、死ぬ程食べてけれ」先生はこう言って山盛りのご飯の上に、具の多いカレーをかけ我々兄妹に勧めるのだった。そして最後んにこう言った。「アキヤ君は東京さ行つたら、日比谷高校さへえれ」
あれから六十年経った。これまでも数回、仙台の小学校のクラス会に出席した。付属中の卒業生はみな優秀で、地元のロータリークラブや商工会の理事長などの重鎮になっていた。先生に一昨年お会いした時に、奥様を亡くされ、ご本人も九十二歳になったと教えられた。なんだかお身体全体が小さくなったように感じられた。
今回の大震災で、子供のとき遊びまわった海岸や港が、壊滅的打撃を受けたことを知り、忘れていたその頃の記憶が急に蘇えった。東京育ちの私には田舎がない。小学校時代を過ごした仙台こそが、我が心の故郷であり、曽我先生こそ私の人間形成期の恩師である。
それにあの広瀬川だ。
月見草の咲き乱れる河原を、父は末の妹を抱き、私と上の妹が母の両手にぶら下がって、歌をうたいながら歩いた情景を懐かしく思い出す。
以上のことは私の妻にも、二人の息子にも話したこともない。親から子へ語り継ぐことが少なくなったこのご時勢だから、せめてもの思い出を、この機会に書き綴っておこうと思った。
「先生さ会いに、また仙台さ行ぐからね。長生きしてけれし。あんときのカレーライスは未だ忘れてねえかんね」
(終)