体験記・紀行文
ベトナム特攻隊 ベトナム・スピリットその三
ベトナムの首都ハノイは河内と表記されるように川と湖の町である。市街に入るには橋を通らねばならない。コンクリ-ト製の長大橋がなかったベトナム戦争時代には、紅河に架かるロン・ビエン鉄橋は最重要な交通路だった。
私が初めて訪れたのはドイモイ政策開始直後で、JALホテルもなく飛行便も香港からのベトナム航空を利用するしかなかった頃である。空港から市街までの高速道路もなく、細い田舎道を牛車と一緒に走らねばならなかった。両側の商店は、ほの暗い裸電球をぶら下げていて、まるで終戦直後の日本を見る思いだった。ここに先ずは橋頭堡を築きたいとハノイ市と合弁でのプロジェクトを企画したのである。相手はまだ市場経済に不慣れで、金利や配当の概念も理解しようとしない。説得に苦労したし、回数も重ねた。交渉は古ぼけたビルの会議室。会議のあとは、仲介者として使った国営のコンサル会社を交えて打ち合わせと反省を兼ねた小宴となる。安宿の食堂。持参のつまみと現地の焼酎ルアモイのコップ酒である。貧しいがさわやかな宴だった。
彼らも戦中派だから打ち合わせの後はついベトナム戦争と太平洋戦争の比較が話題になる。お互い追従混じりの賞賛と自己弁護が多かったが、最後にコンサル会社の社長がモスクワ仕込みの英語で訥々と語った。
「日本にも特攻隊がいたとか世界を相手にしたというが、俺たちの戦場は自国内だよ、あの時は学生だったが、ロン・ビエン橋の鉄骨に身体を縛りつけ河に沿って真っ直ぐ飛んでくる戦闘機を機関銃で迎え撃ったんだ。みんな勇敢だったが死ぬ気じゃなかったね。できれば生き残ろうと思ったよ」
これは効いた。「よく助かったね」と言いかけた途端、私の胸に何かがこみ上げた。照れ隠しに肴を探すふりして屈みこみ、汗を拭くように顔を拭った。
結果としてその案件は条件も双方の折衷案で折り合い、事業としても成功したが、同時にベトナム人のしたたかな抵抗精神と建設技術に感心したものである。