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「800字文学館」

五戒の誤解

富岡 喜久雄

 最寄りの駅ビルに道路面から二階の駅舎までエレベーターが新設された。節電のためエスカレーターが止められたので、膝痛の身だから使うことにした。某日、閉まりかかったドアーを押しとどめ乗り込むと真向かいに妙齢の女性が乗っている。オレンジ色のブラウスの胸元を開き気味に着て、すらりとした肢体を白のパンツに包んだ姿が眩しい。思わず「失礼」と声をかけ、慌てて背を向けた。微妙な気分のまま正面の扉を見ると「ちじょう」「かいさつ」と書いてある。ひらがなだけの表示だから一瞬意味がつかめず、何故か「痴情」「戒殺」の文字が頭に浮かんだ。

 赴任先のラオスでのこと。ある朝近所で起こった殺傷事件が話題になった。新聞報道はされないから現地スタッフの口コミである。浮気をした亭主を妻がメッタ刺しにした事件だという。
 昼休みに彼らに聞いてみた。
 「毎朝女たちは托鉢の坊さんに布施しているし、男たちも年に一度は三日坊主の出家をするくらいだから、五戒の教えは身についている筈だろう、こんな事件は起こりようがないじゃない」
 すると
 「五戒とは何か知っていますか。嘘つくな、盗むな、酒飲むな、虫も殺すな、綺麗な女には手をだすな、ですよ。みんな出来ないことばかりじゃないの。だから五戒なのです」との答。
 成程、皆が守れないことだからこそ戒律があるのだというのも解かる気がして、空念仏とはこのことかと感心してしまった。

 さて「ちじょう」は「地上」で「かいさつ」は「改札」と気付く間もなくエレベーターは二階に着いて、反対側のドアーから件の美女は足早に改札口へと向かった。カードをかざすも改札バーは彼女の前で音をたてて閉まってしまった。途端に発着板の文字が消え電車は発車してしまった。彼女は諦めてホームへ向かいながら振り返り、責めるようにこちらを見つめた。でもその含み笑いに恨めしさを込めたような表情がとても魅惑的で男は悟った、やはり五戒の教えを誤解していたと。

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