六代目『倅の』志ん生
古今亭志ん朝が逝って十年になる、生きていれば七三歳。六代目古今亭志ん生を名乗っており、留名の封印を解いて三代目三遊亭圓朝襲名というような声も出ていたかもしれない。五代目とは全く異なる芸風の彼が、古今亭お家の芸『火焔太鼓』『黄金餅』、先代が渋く唄った『大津絵 冬の夜に』などをどう演じたか、人情噺はどう聞かせてくれたか、などと想像すると残念で涙が出そうになる。
今日の落語界の隆盛は、志ん朝の死という衝撃と危機に発奮した中堅若手の精進、すなわち死せる志ん朝が生ける噺家たちを走らせた結果の姿であるという意見がある。そんなことはどうでも良いから、六代目『倅の』志ん生、更には平成の圓朝を聞きたかった。
志ん朝が死への病を得た頃、私は外国にいたが、亡くなる年の正月、休暇で帰国して何気なく見ていたテレビの対談番組での志ん朝を見てぎょっとした。痩せて目に全く生気が無いように見えたのである。共演者も本人も病気の話はしなかったが、何か重い病気に罹っていると思わせる姿であった。
任地に戻り、知り合いの鮨屋の大将に「志ん朝さんは病気なんですかね」と聞いてみた。
大将は、飲む打つ買うに加えて、力士役者噺家の取り巻きで散財三昧、三代続いた店を潰し、にっちもさっちもいかなくなったところを贔屓筋に拉致され、ヨーロッパで店を持たされたという遊び人、外国にいても独自のルートで業界の裏に通じていた。
大将は仕事の手も休めず「うん」と生返事で、流石の彼も詳しい事は知らないようだった。実際、志ん朝の病の死への進行は春頃から急だったようである。
九月末帰任し、十月初め新しい職場で朝、エレベーターで落語鑑賞の師匠と仰ぐ先輩社員の篠やんと偶然乗り合わせた。彼は私への「お帰り」も抜きで、開口一番「志ん朝さんが逝っちまったよ」と涙目で言った。その夜は三輪の質屋の倅である篠やんに誘われ、浅草で『付き馬』にちなんで湯豆腐でしんみりと飲んだ。