89年の生涯より(36)忘れ得ぬ人々(七) PETA(ジャワ防衛義勇軍)の若者たち
一九四四年初頭、ジャワ・バンドンの旅団司令部に着任した経理部見習士官の私は PETA経理幹部要員教育に参加した。私の分担は被服、糧抹の補給、給養(人馬の生存に必要な物資を供給すること)であった。初年兵時代からの体験と経理学校で習ったことをそのまま教えるしかなかった。
その上、内地よりの補給がだんだん少なくなってゆくので、「現地自活」が叫ばれ、私もまだ見たこともないテンペ(大豆を原料とする豆腐に近い食品)を大団(PETAの単位、定員500人)で製造して給養に充てることなどを話した。
そのほか、教程には無かったが、レンバン(バンドン市北方の丘陵地)のホテル跡に十六軍宣伝班が開設した「ジャワ戦勝記念館」に生徒たちを引率し、ジャワ作戦の経緯、オランダ軍の残した兵器などを見学させた。
この往復には軍歌を歌いながら行進したが、生徒から「ミヨトーを歌わせて下さい」という。「ミヨトー」とは聞き慣れない言葉であるので、聴いてみると、「見よ東海の空明けて」で始まる「愛国行進曲」のことであった。作曲者の高木東六氏によれば、「日本人の水準より少し高めの歌」であった。私が中学校時代に唱歌の時間の試験に歌わせられたことがあったが、声変わり期の生徒には難しい歌であった。この難しい音階の歌を彼らがもっとも好んだということは、その音感が日本人より優れていることを示している。
生徒の中にスギハルトという好青年がいた。彼は日本語が良くでき、「杉春戸」と署名していた。敗戦後、「被服、食料品を英、蘭軍に引き渡すため、在庫品のリストを英、蘭語で作成せよ」との命令が軍司令部よりあった。彼は率先、作成してくれたのは本当に有難かった。
戦後、十年くらい経ってから、ようやく彼との文通が可能となった。彼は独立軍の将校として苦しい戦いを経て、少将にまで昇進し、印度大使、検事総長なども務めた。