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「800字文学館」

大正野球ギャル

池田 隆

 長崎の小学校で初めて野球を覚え、同時にプロ野球選手や、巨人と阪神といったプロチームの名前も友人から教わった。
 帰宅して、しこたま仕入れてきた野球の知識を自慢げに母へ披露した。日々家事に追われ、野球の事など全く知らないだろうと思っていた母だったが、私の話を聞くや急に目を輝かせ、野球の細かいルールから、カーブやシュートの球種、さらには有名選手の出身校まで滔々と話し出した。果ては本棚の奥から立派なスコアブックを大事そうに取り出し、詳しい解説を始めるではないか。
 以来、わが家でも週一回のスポーツ紙を取るようになった。ある時は遊びに来た友人が母の野球話を聞き、驚いて「おばさんは女子野球の監督だったとね」と訊ねていた。

 大正末期から昭和初めにかけての娘時代、東京育ちの母は大学野球の大ファンで、慶応をいつも応援していた。早慶戦が復活し、神宮球場の完成を待って六大学野球が始まった頃である。慶応で投打に活躍した宮武に話が及ぶと、水原や三原、川上や大下も形無しである。
 母は祖母や大伯父に連れられて観戦に行っていたが、時には女学校の帰りにも神宮へ寄り道したかったようだ。しかし厳格な海軍軍人の祖父がそれを許す筈もなかった。観に行けない日には自宅で鉱石ラジオにかじり付き、ラジオ実況放送を聞きながら例のスコアブックをつけたとのこと。
 憧れのスターはヤンキースのルー・ゲーリックであった。後年、「打撃王」と称するゲーリー・クーパーが演じる彼の伝記映画が上映された時には、勇んで私を連れて行ってくれた。

 晩年はいつも野球放送のテレビをつけて過ごしていた。プレイに対する評価は手厳しかったが、日本野球とは雲泥の差があると思っていた大リーグで野茂が活躍するのには喜んでいた。
 母の野球ギャルの血は隔世遺伝したらしい。私の末娘は高校時代にしばしば後楽園球場に寄り道していたが、話の分り過ぎる私が祖父の様にそれを禁ずることはなかった。

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