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「800字文学館」

お隣のシャウルさん

志村 良知

 アルザスのコルマールという町のアパートで、エレベーターホールを隔てて向かい合ったお隣さんは、シャウルさんという引退した判事さんだった。
 シャウルさんは体も声も大きく、顔も立派で、この人に睨まれたら悪い奴も観念しただろうと思われる貫禄があった。最初の御挨拶の時、書斎でシャンペンを抜いて歓迎してくれたシャウルさんは上手な英語で、引退と同時に法律書は処分しここには文学と趣味の本しかないよ、と笑った。壁の法服姿の肖像画は世界史の教科書の偉人の姿そのままだった。ご夫妻とも南仏の出身であるが、最後の任地のコルマールが気に入ってそのまま住む事にしたのだという。ベランダで読書するのが日課である事はまもなく判った。
 初めて我が家にお招きした時には玄関で靴を脱ぐのが予想外だったらしく、「いやー、靴を脱ぐのか」と驚き、楽しそうに日本の習慣に従ってくれた。靴下に穴が空いていた。
 奥様のエレーヌさんは喉の手術を受けた影響で、私には至近距離でも話の内容が聞き取れなかった。しかし、南仏の女性らしく二往復の熱烈なビズ(bisou=キス)という武器があって、目が合うとそのまま見据えて迫ってくるので腰が引けた。あまり外出もされなかったご夫妻に、四季の野の花を摘んできたり、旅の土産を差し上げる時などは、なす術もなくべたべたにされた。
 一年もするとシャウルさんはフランス語で話しかけて来るようになった。窮して英語を口走ると大声で「フランス語で話しなさい、ここはフランスだよ」と意見された。
 エレベーターホールに毎朝必ず漂うコーヒーの香りに、「おー、年寄りでも西洋人はハイカラなもんだ」、とそこに異国を感じた。

 五年程した頃、シャウルさんが入院し奥様は親戚に身を寄せたとかで、お隣は突然留守になってしまった。そして間もなくシャウルさんが亡くなられたというニュースを聞いた。
 ご夫妻と何の挨拶もせずお別れとなってしまったのは、今でも心残りである。

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