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「800字文学館」

稲むらの火 二三・九・二九

中川路 明

 今回は「稲むらの火」、故老の一席。先日テレビ歴史館で安政大地震を見た。主題は一八五四年紀伊国、広村を襲った安政南海地震である。同村村長醤油屋濱口悟陵が遠い沖の豪鳴を聞き、津波を予知し村の若者を招集,丘陵耕地に散在する稲むらに点火を命じた。この迅速な果断で村民は急を知り、高所に避け被害は防がれた。米は農家の財源だが、脱穀後積み上げ乾燥した藁も、一家の内職である生活品加工の貴重な原料として、農家は厳重に管理していた血の一滴だった。
 濱口の機転と自宅も燃やした犠牲的精神に敬服した小泉八雲は『Living God 』を著し「生き神様村長」と紹介した。地元教員は八雲の作品を翻訳応募し、小学生国定教科書に『稲むらの火』と題し、一九三七年から一九四七年まで掲載された。私はこの文を学んだ最後の世代で、地震・津波・稲むらの火と一気に口から出る。一方、この番組のメンバーも初耳、私も東北震災で稲むらの記事が皆無という不可思議の次第を知り驚いた。
 なぜこの大事な話を教科から外したか。印度大津波首脳会議で小泉総理も、シンガポール、リー首相に日本では小学生から津波対策を教えていると言われ面食らった。今年から震災対策が再掲載された。濱口は、頂上の村道を荷車で踏み固めた堤防を四年後に村人総出で完成、今の「皆の東北復旧」の手本になっている。
 余談にもう一つ大きな震災体験を。一九四〇年から五年間遠州灘から紀伊半島にかけ、数回震度六強の地震が続いた。連合艦隊壊滅の挽回に、軍は知多・名古屋・四日市・阪神間に戦闘機工場を急造した。中学二年、一九四四年の十二月八日午後、勤労動員先の尼崎工場で航空部品旋盤加工中、東南海地震が発生した。駆動機構のある天井梁から落下する工具、油缶を避け九死に一生だった。頼みの迎撃戦闘機のない以後の空襲は、B二九の跳梁に任せ炎の波に追われた。休日は地雷を抱える米軍上陸防御の対戦車自爆訓練に明け暮れるうち、敗戦を迎えた。

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