ある万葉歌碑
信州野沢温泉の近くに山岳信仰の修験道場として栄えた小菅神社がある。中世には僧坊が奥、中、里の院合わせて37坊、僧侶、修験者ら300人を擁していたという。戦国時代に川中島合戦の戦乱に巻き込まれ、奥院を残して焼けてしまったが、その後飯山藩主の庇護を受け一部が修復された。神仏分離令により神社となってからも多くの人たちの信仰を集めている。
小菅神社の里院本殿に向かう参道の奥、石段の登り口に苔むした自然石の歌碑がひっそりと立っている。
浅葉野尓立神古菅根惻隠誰故吾不恋
万葉仮名で書かれたこの短歌は、万葉集巻十二にある柿本人麻呂歌集からの歌。
『万葉集釈注』(伊藤博著、集英社)によれば「浅葉野に 立ち神さぶる菅(スゲ)の根の ねもころ誰が故 わが恋いなくに」と訓(よ)み、「浅葉野に生えている古い菅の根のように、ねんごろにしみじみ あなた以外の誰にも 恋いをしません」の意という。
柿本人麻呂歌集からだが人麻呂の作ではなく、作者未詳という。
浅葉野は所在地不明。スゲは沼や澤に自生し、笠や蓑の材料となる日本人の生活に欠かせなかったありふれた植物。スゲに寄せて恋心を詠んだ相聞歌だ。
地元の教委が建てた説明板には、天保年間の文献に「近来里祠に万葉の人麻呂の歌を碑石に彫りて立」との記録があると書かれており、江戸後期に建てられたと推測される。
万葉集の歌が、ひらがなと漢字混じりで表現されるようになったのは鎌倉中期以降で、万葉の歌を読む人は全国でもごく限られた人たちだった。
この歌は前記釈注では「巻十二の人麻呂歌集のうち目立つのは4首ぐらいで、その他の歌は類型性が目立ち、・・」ときびしい評価をしている。
当時の小菅の人たちは、4500余首もある万葉集の中から読みも意味も難しく、知名度の低いこの歌をなぜ選んだのだろう。「立神」と「古菅根」の語から無理に小菅と結びつけたのではと推測される。
それにしても都から遠いこの山里で、万葉集が読まれ敬愛されていた事実には驚かされる。
(11・10・28)