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「800字文学館」

赤穂浪士 引き上げの道

清水 勝

 頃は元禄十五年十二月十四日、と言いたいところ、平成二十三年の某日、両国駅に近い旧本所松坂町の『吉良邸跡』から、潮田又之丞の槍先にある上野介の首ならぬリュックを背負い、「いざ、出発!」と泉岳寺に向かったのは四十七士ならぬ四人の初老の者たち。
 まず我々が向かったのは、討ち入り後に事の恐怖におののいて門を開けなかった回向院。鼠小僧次郎吉の墓にお参りし、横にある巨大なペットの墓に今を感じながら、隅田川に沿って歩くと「芭蕉記念館」があった。そういえば蕉門十哲の一人、其角には「子葉」という俳号を持つ大高源吾が門人にいた。討ち入りの前日、偶然出会った源吾に「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句を向けると、源吾は「あした待たるるこの宝船」と返した。その意味を測りかねる其角の姿は歌舞伎『松浦の太鼓』の一場面となっている。
 俳句の取り持つ縁で、永代橋東詰めの「乳熊屋味噌店」で赤穂浪士は暫しの休息が得られた。乳熊ビルの前にある石碑によれば、赤穂浪士大高源吾は、乳熊味噌の初代竹口作兵衛とは其角の門下生として親しかったことから、作兵衛は一同を招き入れ甘酒粥を振る舞い、労をねぎらったとある。無縁仏をはじめ来るものを拒まぬはずの回向院との対応の違いに「天晴れ!乳熊屋」と称えられたことだろう。
 この後は、聖路加病院看護大学横を通る。ここは浅野家の江戸屋敷のあったところである。浅野家断絶後は召し上げられたものの、主亡き屋敷跡に凱旋報告をしたかったのだろう。それがために両国橋を通らずに永代橋から霊岸島、鉄砲洲の道を採ったのかと納得しながら先を急ぐ。
 東銀座には工事中の歌舞伎座があるが、ここは浅野内匠頭の弟浅野大学邸跡であり、大見得を切って通ったことだろう。新橋交差点から第一京浜に入ればもう一直線。高輪大木戸跡を過ぎれば間もなく泉岳寺だ。行程十一キロ。赤穂浪士は二時間で到着したようだが、我らは寄り道もあり、四時間で着く。

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