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「800字文学館」

三斗小屋温泉

新田 由紀子

 栃木県北那須岳の山懐に二軒の古びた宿がある。歩いてしか行けない登山者憧れの山の湯だ。三斗小屋温泉というその名のいわれは定かではない。
 夏山シーズン目前に体調を崩し、ザックと登山靴を横目に溜息をついていた。病状が落ち着くと、しきりに山の風が誘いに来る。待てよ。ただ登るだけだっただろうか、山の楽しみは。温泉鉱泉熱泉冷泉硫黄泉にアルカリ泉。露天に内風呂湯花ゆらゆら無色透明濁り湯源泉かけ流し。お肌つるつる血液さらさら万病湯治。そうだ。医者の薬ばかり飲んでいてもつまらない。
 東北新幹線と路線バスにロープウェイを乗り継いで、降り立ったのは那須三山の主峰茶臼岳。目指すいで湯は稜線の向こう側だ。不気味に轟音をたてる噴煙に追われて山腹を下る。赤茶けた岩の道が、黄葉の美しい樹林帯に入ってホッと一息。沢を渡り石清水で喉を潤すと、山道は広くゆるやかになって、荷を積んだ牛が行き来したという往時も偲ばれる。
 道の先が開けると、忽然と建物が姿を現す。時の移るままにつぎはぎしてきたような、木造二階建て。湯けむりに煮炊きの匂いを漂わせて、深い郷愁を誘う。墨の薄れた看板を掲げるのは「煙草屋」と「大黒屋」。引き戸を開けて訪えば、囲炉裏を切った帳場はひっそりと煤けて暗い。すり減った一枚板の階段を上がって通された部屋は四畳半一間に樵仕事の卓袱台が一つ。剥げた木枠のガラス窓に映るのは会津の山並か。奥州へ抜ける裏街道がこの山中を通っていたという歴史に思いを馳せる。
 さて、湯の香に誘われていざ湯殿へと。開け放たれた窓からは傾いた陽が差し込んで湯気を透かしている。丸くすり減った檜の湯船に身を浸せば、熱めの湯もするりと肌になじみ、陶然として眼を閉じる。思いがけず得た病がもたらしてくれたひととき。ああ、極楽と部屋に戻れば夕餉の小膳が差し入れてある。山はとく昏れて、自家発電の電灯が心細くまたたく。風が出てきたようだ。厨房の気配も今は消えて、山から引いた清水が樋を流れ落ちる。すだく虫。湯桶がコトンと音をたてる。
 どれ、もうひと風呂。障子を開けて廊下に出ると、ぼんやり灯された吊りランプが秘湯の真骨頂へといざなう。

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